[エッセイ]忘れられたねこふんじゃった
初めてCDを買ってもらったのはいつだったのか、全く記憶にありませんが、気づくと何枚かのクラシックピアノのがありました。
家には母が子どもの頃から使っているアップライトピアノがあり、ずっとそのピアノをいつも見ていたせいなのか、幼児の私は母に一生懸命ねだってピアノを習い始めました。
買い与えてられていたCDは、わたしのレッスンのために買われて、車の中や家で流れていたのだと思います。
そうやって、まともに触れ合った音楽がまだクラシックだけだった頃、初めて自分から欲しいと思って買ってもらったCDが「ねこふんじゃったスペシャル」というタイトルのCDでした。購入場所は奏者の小原孝さんのコンサート会場です。
私の実家の小さい町にピアニストが来てコンサートを開き、少し子ども向けの曲も弾いてくれるらしいということで、両親と一緒に出掛けたのだったと思います。わたしにとっては生まれて初めてのコンサートでした。
コンサート後に会場で購入したCDに奏者の小原孝さんというピアニストがサインを書いてくれるというので、急いで母を引っ張って物販に行き、この「ねこふんじゃったスペシャル」を買ってもらいました。
つまり今うちにある、ねこふんじゃったスペシャルは奏者の小原孝さんのサイン入りです。この盤面をみるだけで、初めて生演奏を聴いた時の何とも言えない高ぶった気持ちや、サインの列に並んだ時のどきどきや、握手してもらった時の大きくて長くて綺麗な手を思い出すのです。
「ねこふんじゃったスペシャル」とは色んな曲を「ねこふんじゃった」にしてしまったCDです。
たとえば、エリーゼの為にやトルコ行進曲と言ったメジャーなクラシック、ピアノを習ったことがある人にはなじみのバイエルの楽曲、ディズニーの有名な曲など、聞いたことあるものばかりです。
また、ねこふんじゃった自体をアレンジして、悲しくなったり、喧嘩したり、ねこが徹子さんになったり、とても楽しいCDです。
ピアノのレッスンを始めたばかりの頃、練習とは別のお遊びでねこふんじゃったを弾いたりするのです。そうすると、「そんなもの弾いていないで、ちゃんと練習しなさい」と叱られてしまいます。
そうではなく、「もっと楽しんでピアノと遊ぼうよ」というコンセプトのCDだったと思います。
同名の楽譜もあり、買ってすぐの私は「ピアノの練習」の名目で思いっきりねこふんじゃったを弾きました。連弾もあったのですが、一緒に弾いてくれる人がいなかったので、一人で弾けないか悪戦苦闘したこともあります。それのお陰かどうかわかりませんが、ねこふんじゃったの連弾の簡単なものなら一人で弾けるという、どこにも使えない特技を習得しました。
私は、ピアノを弾くこと自体が好きでした。だから、普段の練習曲を苦痛に感じたことは、あまりありません。もちろん何度も何度も同じ練習曲をやりすぎて嫌になることもありましたが、基本的には好きでした。
母がもっと楽しい曲を弾こうと、アニメやドラマの主題歌の楽譜集を買ってくるのですが、私はすぐに練習曲に戻ってしまいます。真面目だったせいもあるのかもしれません。そのうちねこふんじゃったは、ほとんど弾かなくなりました。CDもあまり聞かなくなり、楽譜も開かなくなりました。
中学くらいになった頃、突然、自分は楽譜がないと弾けないということに気づきました。楽譜があってその楽譜の通りに弾くことはできるのに、自由に弾くというのがどういうことか分かりません。つまり「表現」ができなかったのだと思います。
先生の抽象的な支持が分かりませんでした。楽譜に表す記号で指示してほしいのに、「もっとふんわり」など言われてもどうしていいかわからないのです。
同じ学年にもピアノを弾ける女の子がいて、彼女が弾くのを聞いたことがありますが、私の時とまったく音が違いました。違うとわかるのに、何をしたらそうなるのかわからないのです。
あちら側はもう全然違う世界なんだろうなと思いました。
高校にあがり、なんとなく続けるモチベーションがなくなり辞めてしまいました。
もし、ねこふんじゃったのCDを聞いた時の楽しい気持ちとそこに込められたメッセージをずっと持ち続けて、もっと遊んでいられたら、もう少し良い音が出せるようになっていたのかもしれないなと思うのです。
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