ワルの美学がわからなかった
昔の不良漫画やそれを元にしたドラマなどを見ていると、あくまで肉弾戦が前提であって、凶器を持ち出してくるやつは卑怯者だという描写が出てくる。
実は、この感覚がよくわからなかった。
僕にとって作中で出てくるワルは、暴力を振るう者であって、序盤からさんざん暴れまわっている。ところが、劇中で刃物を持ち出すやつがあらわれると表情が一変する。「オイオイあいつやべぇぞ」「イカれてやがる」と驚きを示したり、あるいは、組織のリーダーなどが「みっともないマネするんじゃねぇ」と一喝したりする。
暴力の中にも線引きがあるとして、しかし、大人から「刃物を使ってはいけないよ」などと言われても「うるせぇ」と突っぱねてみせるような人物しか出てこないのに、一定の美学が共有されている。
これはいったいどういうことだろうか。
ひとつ仮説として思いついたのは、いまよりもボクシングやレスリングが身近にあるということ。プロレス中継の視聴率も高く、同世代みんなが同じ試合を観ていることが当たり前だった、とする。
もちろん、プロのボクサーやレスラーは無闇に暴力を振るうことなどしないスポーツマンだ。あくまでリングのなかでレフェリーの立ち会いのもと試合を行っている。
だから、無闇に暴力を振るうワルは、たしかにワルなのだが、彼らのなかに例えば憧れのレスラーのようにドロップキックを決めてみたいとか、憧れのボクサーのようにカウンターパンチを決めてみたいとか、それが自分でも言語化されていないかもしれないけど、理想の姿がある。
カウンターパンチを綺麗にきめるには、相手にも腕が必要だ。ストレートの構えのまるでなっていないパンチに合わせても綺麗なカウンターにならない。自然と強い相手を求めるようになる。殴り方のダサいやつを相手にしてもおもしろくない。
こうして前提が共有されていくなかで、時折、セオリーを無視して凶器を使う人間があらわれると、「なんだよつまんねぇな」となるのでは。
さて、現在において、レスリングやボクシングの人気はもちろんあるものの、かつてのように同世代みんなが観ているものではなくなってしまった。暴力的なコンテンツは子供の教育上よくないといって親が排してしまう向きもあるかもしれない。しかし、結果として、暴力のなかに同世代が共有する規範や美学がなくなってしまい、衝動的に刃物を手にとってしまう、ということが起きてはいないだろうか。直近で痛ましい事件もあったので、あまり言及したくないところではあるけれど、もしかしたら、暴力的なものや性的なものを排するだけでは却って規範がなくなってしまう、ということもあるのかもしれない。