神に従うのか、人に従うのか。
自分の考えや、今まで培ってきたこの世の常識を捨てて、神様の思考・心情・脳になれるように、と思っていても、どれだけそれが難しいかを毎日思い知らされます。
そして日常で起こる様々なことは、聖書に答えがあったり、raptさんが伝えてくださる御言葉に答えがあったりします。
本当に驚くようなピッタリなタイミングで、聖書の聖句を目にしたり、御言葉を聞いたりするので、有難いなぁと心から感謝し、「求めれば与えられる」ことを体験しています。
私は何度読んでも「どうして、このようなことをする必要があるのだろうか?」と理解できなかった聖書の箇所があります。
それは「列王記 上」に書かれているのですが、
「神の人」と呼ばれる人が、神様の言葉を告げに王様のところへ行きました。そして、王様が「お礼をしたいので一休みしていってください」と王宮へ招きましたが、「神の人」は神様から『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められていたので、王様の誘いを断り、来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行きました。
帰り道の途中で、樫の木の下で休んでいると、その国の老預言者がやってきて、「一緒にわたしの家に来て、食事をなさいませんか」と勧めました。でも神の人は先ほどと同じように、神からの戒めのために断りました。
しかし、老預言者は「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」と偽りを言い、その人を欺いたのです。
「神の人」は、それならばと彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲みました。
神の戒めに従わなかったので、「神の人」は老預言者の家からの帰り道の途中、獅子に殺されてしまいました。
老預言者は自分が「神の人」を騙し、偽りを言ったから「神の人」は神から裁かれて殺されてしまったのに、道に「神の人」の亡骸があると聞くと、行って亡骸を抱えてろばの背に乗せ、自分の町に持ち帰り、自分の墓にその亡骸を納め、「なんと不幸なことよ、わが兄弟」と言って彼を弔いました。
ここを読んだ時に、老預言者は何をしたかったのか、どうして欺いたのか、わざわざ神の人を騙す必要があったのか、と怒りを覚えながら、老預言者の立場で考えていました。
でも、二度、三度と聖書を読み返していくうちに、あ、「神の人」が試されたのだ。神の言葉に聞き従うか、人の言葉に聞き従うかを。と理解できました。
老預言者の言葉を聞いたときに、すぐ鵜呑みにして信じず、自分ももう一度神に尋ねてみたらよかったのです。
「この老預言者の言葉を信じて良いのでしょうか、神の御心でしょうか。」と。そうすれば必ず神は真実を答えてくれたはずです。「聞き従ってはならない、寄り道をせず帰りなさい。」と伝えたはずです。
この聖句の意味を理解出来た時に、あー、自分もよくこういうとあるなぁと気をつけなければならないなぁと感じました。
例えば、Instagramなとでフォローされた時に、フォローしてくれた方の投稿を見た時に、普通の当たり障りのない料理や景色や好きなものなどの投稿なのですが、何となく嫌な感じを受けたり、違和感を覚えることがあります。霊感か直感か分かりませんが、「この人は違う」と感じます。またとても俗的な波長を感じるのです。
でも、たくさんの方にフォローされていたり、自分と共通する方や特に信頼している方がその人をフォローしていたりすると、みんながしているのだから、私の思い過ごしかなあと、周りの人に従ってしまう時があります。
私もまだまだ自分の勝手な思い過ごしなのか、神様からの霊感なのかがきちんと分からないので、なんとも言えないのですが、割といつも最初の直感が正しいのに、時間が経つと自分で否定してしまうことが多いのです。
いつもいつも、一度立ち止まって神様に尋ねること、人に従うのではなく、必ず神様に従うということを肝に銘じて実行したいと思います。
知らず知らずのうちに、神様の御心からズラされてしまうことのないように、しっかりと三位に意識を合わせていたいと思います。
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