いちじくの記憶
自分の最古の記憶(かもしれない)の話。私が三つまで住んでいたアパートの近くには大きないちじくの木があって、母はその木から熟した実を一つ捥ぐと「冷やして食べようね」と言って冷蔵庫に入れた。私は何度もドアを開け閉めしては「まだかな?まだかな?」といちじくの冷え具合をチェックしていた。冷蔵庫にはあまり物が入っていなくて、がらんとした中、いちじくはぽつんとした存在感を示していた(ような気がする)・・・・とそこで記憶は終わっている。
それから二十年もの月日が流れた頃、私は中東をよく旅していた。ヨルダンでペトラ遺跡への道・シーク(「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」で言うところの“三日月渓谷”)を歩いていた時、独特のねっとりした甘さと尖った青臭さの混じった匂いが微かに漂って来て、見上げると、高さ90m以上ある崖の縁の辺りからにょきっと横向きに野生のいちじくの木が生えていた。シリアでは十字軍が築いた城のある町に着いた時、同じ匂いがぷんと香ってきて、出所はやはり小さな青い実を付けた野生のいちじくの木であった。イランなどでは乾燥させてぺしゃんこになった白いちじくの実を市場でよく見かけた。もう少し西へ移動しギリシアへ行った時には、地中海の島で黒々とした小粒のいちじくを食した。割るとイチゴジャムと見紛うほどとろりとした真っ赤な果肉が現れ、それは今まで食べたどのいちじくよりも甘かった。
今住んでいる場所では庭にいちじくを植えている家が多く、夏の終わりになると通りに出るだけで微かな匂いが流れてくる。ただ空き家の多い地域で、住む人無く荒れるに任せた庭でたわわに実を付け、鳥に啄まれ、ヘクソカズラなどが絡まっているいちじくの木を見るともったいないなあー、なんとかならんかなあーという気持ちになる。なんともしようがないのだけれど。