生まれて初めて日傘をさした日
その日、いつものように朝、出勤するために最寄駅に向かう途中で、生まれて初めて、日傘をさした。
「日傘をさした」のが初めてなのではなく、「出勤時に日傘をさした」のが初めて。
私の通常の出勤というのは、
朝早く起きてお弁当を作りながら洗濯機をまわし、
朝ごはんを作りながら出かける準備をし、
子供たちを起こして学校に送り出し、
洗濯干したあと、家中のゴミを回収してゴミ出ししてからの、
ほぼ毎回、余裕なく家を出てオフィスに向かう。
決められた出社時間に間に合うために、
家から最寄り駅までの徒歩15分と、駅から勤務先までの徒歩15分はいつも早歩き。
日傘なんかさしていたら、人の間を通り抜けるのに邪魔だし、空気抵抗で早く歩けない気がする。。。
。。。そんな風に毎日、
あたりまえに体を動かし、
あたりまえに思考を巡らし、
より早く、より効率的に、ひとつでも多くの用事をこなそうと、
追われるように過ごしているのかもしれないなぁ。。。
初めて日傘をさしたその日の朝、
日傘が作ってくれる、自分専用の涼しい日陰といっしょに歩きながら、
そんなことを思った。
日傘は、前日に娘から譲り受けたもの。
娘にはアニメとか、声優さんとか、Youtuberとか、Vtuberとか、
よく見ている配信を通して知ったキャラクターの中に、いわゆる“押し”がいて、
ファン心をくすぐる粋なデザインの新しい日傘を手に入れたらしく、
もう使わないからどうぞ、と手渡された。
表面が白くて、内側が黒い、コンパクトな傘。
ふだん日傘などささない私が、その日、日傘を差したのは、
「急がない日常」というものをやってみようと思ったから。
乗る予定の電車の時間が迫っているにもかかわらず、
急がずに一歩一歩、足の裏が地面について離れるのを感じながら歩いてみた風景は、
なんだか新鮮。
けれど同時に、早くいきたい、走りたい、追い越したい、曲がり角ショートカットしたい、
いつものワタシもむくむくと出てきて、脳内セルフツッコミ合戦がにぎやかしい。
「急がない日常」をやってみよう、と思ったのは、実は今回が初めてではない。
思い起こせばそれは16年前の夏。そこでの出会いと気づきが最初だった。
友人に誘われて、近所で開催されていた、とあるモノづくり講座に参加した。
よくあるカルチャースクール的なもので、
その日のうちに作品をひとつ作っておしまい、かと思っていたら、、、違っていた。
そこで出会ったB先生は、
出来上がったワタシの作品をじっと見て、その形状や制作過程から、
当時の私の心情や日常の風景、小さな悩み事まで読み解いて語ってくれた。人の心はとても複雑だから、他人が理解することは不可能だし、
占いやスピリチャルも、統計学と心理学を駆使して、うまいこと語ってるだけだろう、
そんな風に思っていたワタシには衝撃の出来事で、
自分の手が生み出したその作品からあふれ出ているという、ワタシの心を知る『方法』を学びたいと思い、
講座の後すぐに、B先生にメールを送り、定期的に講座に参加することになった。
あれからもう、16年。。。
安易に『方法』を学びたいと思ったワタシの思惑はすぐに打ち砕かれた。
「ワタシの心を知る」という学びの実際は、方法論ではなく、
今ここにあるワタシの内側にひたすら意識を向けていく、そんな内容だった。
講座を通して、たくさんの、無自覚だったワタシの特徴や癖を知った。
・スケジュールをパンパンに詰め込んで、効率よくこなすことに悦を感じていること
・大変、大変、と言いながら、実は忙しいのが好きでわざとやってる説
・表面的には穏やかでいい人をやってる風だけど、
実は憤懣がたまっていて怒っているのが他人にはバレバレだったこと。
・良かれと思って人に勧める行為が、実際は自己都合優先、効率優先で
人の心をガン無視した迷惑な振る舞いになる場合もあること。
・良かれと思って子供にやってあげてる言動が、実は子供の成長を邪魔し、
夢や希望を潰して可能性を否定する行為になり得ること。
気づいたときは目から鱗、気づけて良かった、知ることができてよかったと、感動と、反省があふれて、明るい未来へ、小さな一歩を踏み出す感じになる。
感情に飲み込まれそうになるとき、自分のことを客観視するワタシを出現させて、考えなしにやらかしてしまう前に自分ツッコミ入れて、一時停止。
これまでとは違う振る舞いを模索し、状況を変えていくことも、いろいろ試してみた。
日々の生活の中で、人に対して少しずつ、それまでとは違う対応ができるようになっていった、とは、思う。
気づけば変われる。
気づけないことはまだまだたくさんあるけど、少しずつ「気づく」を増やしていくことはできる。
そうして気づいたワタシの悪しき習慣も、繰り返し試行を重ねていけば、違う習慣が身についていく。
狭小で未熟で考え至らないワタシが、自己満足で周囲の人たちの足を引っ張っていた風景を変えていける。
子供たちの、彼らなりの考えや行動をただ見守り、共感できなくても、理解できなくても、それは悪いことじゃなくて、可能性との出会いと捉えて、違う角度から意味を考える。
何かに不満を感じたら、そこにある自分の欲求を探して拾い、言語化して忘れないように記録する。
そんな、気づきと学びの記録をブログに書き続けた時期もあった。
けれど、、、
何かおかしい。
現状があまり変わらない。
家族関係、対人関係、同じようなパターンで理不尽な事件が起こる。
今日も相変わらず忙しさに追われるワタシ。
変わらないどころか、悪くなっている気さえする。
気づいて感動して自分に課した新たなチャレンジも、ほとぼり冷めるとすっかり忘れてる。
「今日、こんな気づきがあった。明日からこうしてみよう!」と書いたら、
ほぼ同じことを、1年前にも書いていた!なんてこともよくあった。
身に入ってない!
16年も寝る間を惜しんで学んでいるのに、なぜ???
忙しいのは、3人子供がいて、フルタイムで仕事してたらしょうがない?本当に?
わざと忙しくして、もっと大事なことがあるはず、とどこかで気にしながら、後回しにしてる。
目の前の用事を次から次へと全部こなして、かりそめの達成感を得ることで、何かを避けてる感。
相変わらずちょっとしたことですぐにイラっとする。
口には出さないけど、子供にちょっかい出したくてしょうがないワタシ。
気づきの感動は、いつしか、
気づいているのに変われない、自責の念に変わっていったのかもしれない。
そのことにすら気づけずに、
自分を鼓舞して頑張るワタシをキープするのに必死になっていたかもしれない。
この期に及んでまた今、ブログを書き始めようとしているワタシ。
ブログを始めると、毎日「書かなきゃ」「更新しなきゃ」という思いが出てくるんだろう。
用事をまたひとつ増やして、より忙しくする流れを起こそうとしてるのかもしれない。
書けなかった日に、あぁ、書けなかったと落胆してしまうのも、今のワタシでは避けられない。
「書かなきゃ」じゃなくて、「書きたい」という前向きな気持ちにフォーカスして、書けなかった日はそれなりの「意味がある」のだと理解すればいい。
学んだ知識を振りかざしてワタシが言う。
でも違うんだよ、知った知識で、あるべき理想のマネごとをしているだけでは、私の中身は変わらない。
心の奥の方に流れてる、本音、本心、習慣を止められない。
やめられない止まらない、気づきの快楽をむさぼり続けて16年もたってしまった。
ヤバ。ワタシ、どうすればいい。。。?
途方に暮れてしまったワタシ。
いゃ、以前のワタシなら途方に暮れてしまったかもしれない。
けれど、16年も繰り返し繰り返し忘れるワタシ、落ち込むワタシをやり続けたおかげで、ひとつ、信じられるものがある。
それは、、、
ワタシが抱えている問題、今すぐに解決しなくても問題ない、ということ。
そして、解決しない問題はない、ということ。
問題解決のこたえは、常に私の中にある、ということ。
あるだけで、見つけられないんだけどね。
なぜそれが信じられるようになったのか、あまり覚えていない。
でも、このブログ、今日のこの長々とした文章、誰に読まれなくとも、明日の私はもう一度必ず読み返すだろう。
1週間後、1か月後、1年後にも、きっと読み返す。
そして、何年か後の私は、今日解けない問題を、解決することができるようになっているはず。
そんな、未来のワタシに向けて、ワタシの謎解きのヒントになるように、今日のワタシが考えたこと、感じたこと、なんでも、綴ります。
未来のワタシから、今日のメッセージが届きますように!
そんなこんなでまずはここから、始めてみよう、、っていう、2024年夏至。