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BSDアクティングスクール5期 第2回 20230709

これは受けた方が良いと強い直感が来て、不思議な幸運も重なって、しーちゃんこと旺季志ずかさん主宰のBSDアクティングスクール5期にに参加できることになった件。本日も印象に残った気付きを投稿させていただく。

2回目の今回は、演劇のメソッドを教えていただき、ペアワークをした。

例えば、ラブストーリーを演じているとして、「愛されたい」という思いを表現するとき、「愛されない私ってこんなに可哀想なの〜、だから私を愛してぇ〜」と被害者になってメソメソするより、「私は、なんとしてでもあなたに愛されたいの!」という強靱な意志を見せつけた方が、表現としてよりパワフルで相手の心に伝わり、より感動させることができるという。

そんな訳で、今回のテーマは「愛される」。
「愛されたい」より更に上の、「私には愛される必要がある!」と宣言し、「なぜなら〜」と理由をその後に続ける。

コンビを組んだAちゃんが、もうめっちゃんこ素晴らしく、本当に心を深く動かされて感動し、たくさん泣かされたのだが、(→トップの画像参照。)

このワーク、私にはとてもとても難しかった。
身体も心も頭も意識も、なかなか思うようにならない。
初心者だから下手くそなだけかと思ったが、それだけではない。
何かがしっくりこない。違和感があった。

戸惑う私に、武藤さんが、相手に伝えるときの身体の使い方や意識の在り方について教えてくださった。
私は、「伝えたい」と力みすぎて身体がガチガチに固まっていたのだけど、心の対流を伝えたいときはそうでない方が伝わるという。まさに、「集中とは、リラックスすることなんだよ」という奥義の通り。
一方、心の在り方は、
自分が愛される理由を述べていくうち、そんな自分に酔ってきて被害者の位置に立ってしまうことがあるのだけど、そうなると、相手に訴えるチカラは途端に弱まるという。
武藤さんが実践して見せてくださった。確かに一目瞭然。
けれど、このバランスも結構難しい。強すぎる感情や思いは、辛かったりしんどかったりするものだから、夢中になるとつい、「被害者」の落とし穴に落ちてしまう。

さすが武藤さんの教えの深いこと❗

そんなこんなで苦戦を続けるうち、川島さんから、「今まで、あまり、相手に求めてこなかったんじゃないかな」とご指摘を受けた。
ガーン😱😱😱。本日一番のショック。
そうです、その通り。
私は、子どもの頃から、親に向かって、「これすっごく素敵なんだよ💗」「私は、これが大好きなの💗」というところまでは言えるけど、「だからこれ買って」とは言えない。
好きな男の子に、「大好き💗」を全身で表現することはできるけど、「だから付き合って欲しい」とは言えない。
そこに踏み込むことができない。
さすが川島さんの指摘の正しいこと❗
講師のお二人は、熱くて深く、本当に凄い。

ワークショップは今日も時間を大幅に延長したけれど、最後のペアまで見させてもらい、それでも疑問が消えなくて、ワーク終了後にお二人に質問に行った。

まず、英語を翻訳しているせいで不自然な日本語になることがあるのだと教えていただく。
なるほど。
…ってことは、英語では「want to〜」の上が「need to〜」ということだと思うので、日本語に意訳するなら、「絶対に成し遂げてみせる!」とか、「〜するまで死ねない!」とかいうことになるのかもしれない。
そうだとすると、いわゆる川島さんの、「ミュージカル作るまで死ねない」とかが目的だったら私ももっとかなり強く行けるけど、その目的が「愛される」となると、自分の気持ちを伝えるだけで精一杯になっちゃう、と言ったら、「たとえ相手が自分のことを大嫌いだったとしても、その相手を変えてでも愛される必要がある、という強さでやって欲しい」と武藤さんに言われる。

ガーン。再び衝撃。なんてことだ…。

私は、無意識の内に自分の領域と相手の領域を分けていて、「自分も創造主だけど相手も創造主だから、お互いを尊重せねば」「自分がそれをどう思うかは、大いに伝えたら良いと思うけど、最後どうするかは相手が決めること。そこは相手の領域で私は何もできない。だから自分が、その相手の領域にまで踏み込んで、ああしてこうしてというのは、相手の世界に土足で踏み込みすぎ」と、思ってきたことに気付く。

でも、お互いが真の創造主であるなら、相手の反応や考え方によって悪い方向に進む筈はなく、影響を受けたならば、そこに本人の意図があるだけだ。
従って一切の遠慮は要らず、遠慮する必要があるなら、それは相手を真の創造主として認めていないということで、そちらの方がよほど失礼な態度ではないかと、これまた今気付く。

随分長い間、そうだった。

「そうよ。そういう言い方だから、結局何が言いたいんだか何がしたいんだかこっちも分かんないのよ。」
実家に帰宅後、今日のワークショップはどうだった?と母に聞かれたので、上記の気付きを話したら、代替者として、今までもこれからもヘビロテされすぎることも知らずに、すました調子でそう言われた。(それが欲しい時も、それに心が動いただけで別に欲しくはない時も、私は言うことも態度も変わらないので、結果何がしたいのかは親からしても分からないそうだ。)

そう。私は、無意識の内に、勝手に相手に配慮と遠慮をしてしまう癖がある。

その上私は、「人のご縁」というものを完全に、神まかせにしている。
恋愛はその最たるもの。

どんなに好きだったとしても、結ばれるかどうかは八百万の神様が知恵を出し合い、ご自身の持ち場を離れて出雲でひと月もサミットやらなきゃ決められないくらいのことだから、その間日本中を神無月にしちゃうことをいとわないくらいなんだから、
人間の見地より、遥かに高い視点で決まるのだろうから、そこを信頼しよう。

だから、そこに対して私ができることは、「精一杯やる」ことがすべてで、そこがゴール。
愛されるという目的を取りに行くことなんて、その発想すらなかった。

そもそも、その愛する人の意思を捻じ曲げてでも自分の方を向かせようとするなら、それはもう執着であり、愛ではなくなっていて、
自分も相手も幸せにすることはないと思っているから、

もし、大好きな人が振り向いてくれなかったり誰か別の人を選んだり愛したりしたら胸が張り裂けそうに辛いけど、それは宇宙の采配だからベストなことだし、愛する相手が決めたことくらい尊重できる女でいたいから、相手を変えてでも愛して欲しいとか、そんな気持ちはないことにし、見ないようにしてきた。

え??みんなは、そんなことないの???

でも、そうだとすると、私の苦しい辛いという気持ち(感情・本心)はいったいどこへ行くのだろう。
なきものとして、私が抹殺してきてしまったのだろうか??

相変わらず本日も凄い気付き。
またも放心状態です。
正直、楽しいというより精一杯。

身が持つかな、と思う今日この頃😅😅😅。

みなさま、今日もありがとうございます💕

#shizuka_ouki
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#chikataroh

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