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BSDアクティングスクール 第5回 20230729

真夏のアクティングスクール、第5回。
早いもので、三鷹駅からバスで通うこのスタジオに行くのは今日が最後となった。
そんなこと言ったら遠方組に怒られると思うけど、酷暑の中、横浜から通うだけでも大変で、ひいこらひいこら、へばりながらなんとか到着。

まずはいつものようにゲームから。
身体と心をほぐしつつ、演劇の面白さと可能性を体感した後、
しーちゃんから、意識が外向きか内向きかという(意識の向きがどうあるかで、観客に与えるエネルギーど印象は、まったく違うものとなるため)、舞台に立つ人間にとって、大切な秘訣を教えていただく。


本日のメインは配役発表。
前回、いきなりやってみたコメディーはややひるむほどにしーちゃんから褒められたのに対し、その他の演目はしーちゃんの反応冷ややかだったので、まぁコレに決まるんだろうと思った作品はひとつ。相手役は男性なので、きっとこの方になるんだろうなと思った通り、相方はマイラさんに。ディナーショー以来のコンビである。

物語としては、余命残りわずかという病を患い、精神的にも不安になっている青年と、そんな彼をケアするために雇われた結果、彼を愛してしまう、看護師の女性とのワンシーン。

この役は、私にとって、かなりすっと入れるキャラクターだ。
明るくて、面白くて、ホスピタリティに溢れていて、周りを笑顔に元気にさせるようなタイプ。彼を笑わせて、共に楽しい時間を過ごそうとしている。共感できるところが多々あり、私となかなか相性が良い。
勘とノリだけで演じてみたらしーちゃんに褒められたので、もうそれでいきたいかなと思ったけれど、ここで、習ってきたメソッドを使うという。しーちゃんによれば、常に一定以上の安定したパフォーマンスを見せるには、メソッドを使った方がよいとのこと。

まずはシーンの目的を自分で考える。私が思ったのは、
「私は、あなたに毎分毎秒、最上の時間を過ごしてもらう必要がある」
「私はあなたに人生は楽しかったと思ってもらう必要がある」
「私はあなたに笑って死んでもらう必要がある」。
しかし、講師の3人に見ていただいたところ、相手に主体があるのは、目的としてよろしくないそう。自分が主体となる目的を取りにいかなければ、魅力的なシーンにならないそうだ。
そこで、しーちゃんのアドバイスから決まった目的はこちら。
「私はあなたに愛してもらう必要がある。あなたが死ぬ前に。」

しかし、はい、分かりました、と取り組んでみたら
目的を設定する前と後とでは、キャラクターも、セリフの意味も変わってしまった。

私は、どこか天然な感じの子をイメージしていた。
相手の好意は感じているけど、彼が死ぬことが分かっているからお互いに遠慮がある中、話の流れとその場のノリと勢いでつい、好きだと口に出して言ってしまうような。

だけど、愛されることが目的なのだとしたら、目的を取るために手を尽くすわけであるから、ふんわりぼんやり受け身でという訳にはいかなくなる。

ただのノリや勢いで好きだと言ってしまうことはなく、いちばん良いタイミングで相手に明言すると決めていて、今だというタイミングで「好きだ」という言葉を放つのではないだろうか。

気になって質問してみたら、目的が変わったからといってキャラクターが変わることはないのだと言う。キャラクターは変わらないけど表現方法はいくらもあるので、それをどうするかは演出家が決める部分でもあり、役者はいろんな表現を出せれば良いのだとしーちゃん。

みるほちゃんがどう思うか、どう感じるか、そのエネルギーを作って欲しい、と武藤さんに言われる。

みるほちゃんはもう少し感情が出ると良いと川島さんに言われる。

そうか。
私は、役の彼女に同化し彼女を表現することばかり考えて、自分を生きることをすっかり忘れていた。

そして、長い間、思考を使って自分を守ってきたタイプなので、このお芝居について、感情は全然出せていない。

ちなみに私は、うっかり口が滑って言ってしまったことは多々あるが、狙って好きだと言ったことはない。好きになった相手にはこちらの好意は必ず伝わるものだから、恋人でない方には、好きだという直接的な言葉はなるべく使わない方が良いかと思っている節がある。好きになったらダダ漏れタイプなので、その上で意図的に言葉にしてしまうと、トゥーマッチになる気がしたからだ。それに、匂わせてるだけの方が、お互いに逃げ場もあるし。

でも、残された時間が少ない中で愛されると決めたら、そんな生ぬるいことはしないのではないか。

私は、自分のことを素直な人間だと思っているのだが、だいぶ受け身で生半可に生きているんだなと思った。

正直私は、教えていただいたBSDメソッドがみな大変難しく感じられるのだけれど、
その原因は間違いなくコレだと思う。
自分を生きていないということ。

そうだ。このアクティングスクールを受講した目的のひとつは間違いなくこれだった。

私は自分自神を生きて、自分の光で輝きたいのだ。

BSDメソッドでは、シーンをより魅力的にする、葛藤が生まれるような要因を「障害」として使うのだけど、この場合の障害は、、あなたが好きだと相手に伝えることの弊害としては、彼が安らかに死ねなくなること、があると思う。愛し愛される女を遺して死ぬのは辛いだろうから、彼の死への恐怖は増すだろう。
そのリスクを取っても愛されることを目的とできるなんて、最期を看取るお役目の看護師のくせに、なかなかに強い子だ。
そこを障害にさせてもらうつもりだが、果たして、私が同じ立場だったら、それはできるだろうか。

この演目は、とにかく彼女が彼を楽しませようというところに全力なので、殆どがその気持ちに同化さえすればノリだけでいけるのだけど、ひとつだけ苦心しているシーンがあって(コントのノリでひたすらおかしく、軽く、笑わせる方向でやったら、そこだけは、しーちゃんから既にご注文が付き、演出が入っている。)そこに、彼女の隠した本音と哀しみが顕れる。

きっと、これこそが演劇なんだなぁ。

私は彼女に同化していたから、彼を笑わせ楽しませることしか考えていなかったのでそのまま笑いに特化したコントの方へ進んでしまって、それはそれで面白かったと思う。私がやるなら、そちらの方がパフォーマンスとして高いと思う。(見ていたメンバーも、そこで笑ってくれたし)

けれど、笑いだけでなく、哀しみも怒りもそのすべてを人間として同時に表現できることこそが、演劇の魅力ではないのだろうか。

あのシーンは、彼女の深い愛と同時に、呑み込んできた哀しみと見えない涙が伝わるといいな。

そして同時に、私は私を生きて、自分のパワーを取り戻せるといい。

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