みんな誰かに片思いしている
「両思いなんて、なくて、人は究極には、みな永遠に片思いなんです。お互いが、お互いに片思いしているんです」
岸田今日子が昔、そんな風に、雑誌のインタビューで語っていた。
自分が注いでいる熱量、時間、労力と同じくらいに、
相手を理解しようとする努力と同じくらいに、
相手も、自分のことを思っているか。
思ってくれてるか。
大好きになって、がむしゃらに愛し夢うつつになったあと、
ふと、不安が差し込む。
わたしがこの人を愛してるのと同じくらい、
この人も、私のこと愛してくれてるかな。
昔は、自分のほうがいつもたくさん大好きで、
相手の好きは小さくて、
わたしのほうがたくさん愛してるのに、って、
憤慨したり、悲しくなったりしていた。
より多く愛されてる方が「勝ち」みたいな。
惚れたものの負け?みたいな。
大人になって、だんだんとわかってきたのは、
どんな関係でも、究極は、片思いだなってこと。
相手の胸を切り裂いて、探しても、証明するものはみつからないだろうし、
相手の言動を丹念に観察しても、正確に、愛を測れるわけじゃないし。
そもそも、愛の形が、それぞれ違うかもしれない。
自分の愛とか気持ちとか、まんま理解されてるかどうかなんて、
わからない。
わたしだって、相手の愛や気持ちを、
ちゃんと、まんま受け取りきれてるかどうか、自信ない。
ここまで、考えて、思い至るのは、
愛って感じるもの、なんじゃないか、と。
どんなに愛されてても、
自分が感じる意識がなかったら、受け取れないし。
自分が、自分の問題に精一杯だったり、
劣等感が強くて、自信がないと、
相手の愛をまっすぐ受け止められないから、不安になるのだと気づいた。
なーんだ、って感じだよね。
そして、自分が捧げる方の愛は、
捧げたら、それ以上は手放して、
相手がそれをどう扱おうと、気にしないこと。
それが気楽なやり方だと学んだ。
男女や恋愛だけじゃなくて、
全ての人間関係で、同じことがいえる。
子どもたちと関わっていて、
彼らなりの愛情や好意を向けてくれてのを、
私はいつも感じる。
それでいて、
わたしはわたしで、
これが一番純粋で誠実だと思う形で、彼らを愛してる。
できることと、できないこともあるけど、
立場の上で、できる限りのことは、する。
わかってるかなぁ。
わからないだろうなぁ。
これも片思いだろうなぁ。
そんな風に思いながらも、今日も会う。
たとえば。
内向的で、ちょっと不登校の傾向もあって、
本や物語が好きで、
感性が豊かで、頭は賢くて、
大人しくて、自意識過剰で、恥ずかしがり屋で、
でも、すごく根が暗くって。
きっと、同年代である高校生には、モテないだろうね。
友だちだって、少ないだろう。
だけど、そんな君の暗さが、私は好きなんだ。
云わないけど、実はそっと見守ってる。
これって、片思いでしょう。