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Xより再掲:シムランカは今までの原神総集編&希望の未来へレディー・ゴーッ!!な話

 この記事は2024年7月28日前後にXに投稿したふせったーに加筆修正をして再掲したものである。

 記事には原神Ver4.8までのありとあらゆるストーリー、キャラクター、イベントのネタバレがある。気をつけてね。

 ふせったーの元タイトルは『シムランカでのニィロウはスメール再演の案内役、ナヴィアはフォンテーヌ総括のアンサー役。モンド勢が解決まで出禁なのは投影でなく受容するからで、スメールで幕引きは童話に真実を凝縮/投影する国かつカーヴェが現実の魔法使い役だから』

 シムランカで考えた様々なことを羅列している。
 個人の思い付きと思い込みで構成されているので、資料や解釈としてではなく「ほーん、こんな考え方もあるんや」くらいの温度で読んで欲しい。



〇原神における夏イベとは


 次の国への助走であり、振り返り回である。初年度は稲妻実装前で様々な情報を取得した。
 次年では稲妻からは万葉が参加し、夢境を思わせるステージの数々にナヒーダの声だけの出演があった。
 去年の瓶の国にはコレイが参加し、人間に憧れその形を真似る幻想水霊というフォンテーヌの説明があった。

 そのため今年のシムランカもフォンテーヌのまとめ+ナタへの情報公開、が含まれているのが前提だ。
 ナヴィアはフォンテーヌ枠であり、どの情報がナタを表すものかの明確な答えはナタが来ないとわからない。頭の良い人達が活き活きと話し合っているのでそちらはそういうトピックを参照していただこう。

 ともかく原神の夏イベには国別魔神任務のまとめ枠(今回はフォンテーヌ)があるため、元々モンド人だけのお祭りイベントではないことを留意しておこう。辛炎や心海も参加していたしね。基本的に魔女会が関わっているためモンド人が参加しがち、という感じかな。

〇何故ニィロウなのか


 シムランカはスメールの魔神任務を思わせるワードやシーンが多い。世界改変と投影された鏡面世界というテーマ自体がスメールと密接な関わりのあるものなので、恐らく副読本はスメール編なのだろう。
 その案内役がニィロウなのだ。
 妖精なのも案内役/ナビゲーターといえば妖精というのもありそう。これはこじつけ。

 では何故他のキャラではなくニィロウなのか?
 魔神任務スメール編の冒頭、教令院は創神計画の第一段階であるアーカーシャの出力向上のため、人々の夢を収穫しようと繰り返し同じ一日の夢を見せ続けていた。
 人々の意識は夢境集合体に集まりある種の仮想空間や”仮想世界”になっていて、その夢の世界の主に選ばれたのがニィロウであった。実は彼女はスカラマシュとそういった因縁がある。互いに認識することはなかっただろうが。

 図らずも『神』に据えられて夢境という虚構世界の中心にいた少女が、今度は自分から創造の魔法で虚構世界の発展を祈り新たな住民を迎え入れることを選んだ
 シムランカでのニィロウはスメールの魔神任務を思い返す役割であり、あの時は”利用された”ニィロウが持ち前のポテンシャルで自分から選び行動するというある種の意趣返しだろう。

 当時は君臨を否定した形になる放浪者と手を組み、ちびドゥリンという異邦人の救済と受容を選択するというのは美しい形だなぁと感じた。

 この自由意志と自己決定はシムランカのみならず原神世界で幾度も語られていた創造主と創造物の問題のキーワードでもある。

〇何故ナヴィアなのか


 次にフォンテーヌ枠での参加となったナヴィア。何故他のキャラではないのかというと、オルビット城での預言の魔女と人形に対する「愛ゆえに生まれ、愛ゆえに手放された。だから自分達も愛ゆえに旅立つ」という答えを出せる人物は彼女が適任だからだ。

 神の預言と偉大な神/魔女の庇護とその庇護下で盲目的なまでの信頼を寄せる人々。オルビット城は形を変えたフォンテーヌそのものなのだ。
 神/魔女と人間側のリーダーである国王がいて、その統治により成立する国だ。

 人間の国モンド、七星が実質的な統治者でありモラクスもまた手放すことを選んだ璃月、支配する神を崇拝しながらも畏怖する稲妻、神を新たに創ろうとしたスメールと違い、一番神を盲目的に愛し頼りきっていたのがフォンテーヌである。

 それを親と子に例えて自立を促すのは、預言に振り回され、多大な犠牲を払い、最終的に神のいない国となったフォンテーヌでも以前と同じように棘薔薇の会のボスとして人々を守り生きていくことを選んだナヴィアこそが相応しい。

 オルビット城で書きたいのは軌跡から解き放つ愛とそれを愛と認識する子、に感じられた
 だからまず人間かつ親からの愛を信じられるキャラじゃないといけないのだが、実はフレミネくらいしかいない。
 自立を促す話なので子供のフレミネではままならないだろう。彼はまだまだ大人の庇護下で成長すべき子供であり、続柄上ではなく年齢的子供に対する自立を謳う奴は子供を食い物にする悪人か責任を果たしたくない親だけだろう。
 あとはともに歩むリーダーも必要条件っぽいのでクロリンデもちょっと違う。

 創造主と創作物は親と子とも言える、とオルビット城で名言されたが、これもシムランカや原神世界における重要なキーワードだ。

 シムランカを遊んでいて、やっぱり今のフォンテーヌって水龍とその眷属に依存する歪な状態になっていることが更に気になってきた。
 ナヴィアが扮した王/人間側のリーダーがフォンテーヌでは不在なのだ。

 しかし今更人間側のリーダーが出てくるよりは、執律庭、共律庭、枢律庭、検律庭などの各行政機関がヌヴィレットの管轄下から離れ、彼の役目が裁判長と発電機(なんて言ったらいいんだこれ)にのみ限定される方がフォンテーヌらしくもある。

 女王を処刑し共和制へ、と書くと元ネタっぽくなるしね。
 となるとマジで水龍が邪魔。メリュジーヌが人間が好きというだけで命を繋いでいるフォンテーヌ国民よ。
 あと元ネタだとこの時点での共和制の寿命は儚く短い。ほな水龍必要か
 これが人間の邪悪さと身勝手さである。

 というか他国と違い行政側の人間で目立つ偉い人がいないので困っているのかもしれない。今のところ執律庭のシュヴルーズとフォンテーヌ廷のクロリンデと、距離を保っていないといけない立場だしお互い口では色々言ってるけど結果的に一番水龍とズブズブなリオセスリだから余計にあの国大丈夫なのかな?と思ってしまう。
 フリーナの公開処刑というショッキングな演出があったからこそ、ショーとしての裁判を否定する流れだと思ったら据え置きだし……。

 しかしどの問題もナヴィアならカチコミ……もとい異議を申し立てて介入していくキャラなので、やはりフォンテーヌの顔って象徴フリーナ&実権ヌヴィレット&革命家ナヴィアなんだろうなとシムランカでの立ち回りを見て改めて考えたのだった。

 ナヴィアが最終的に王ではなくボスと呼んで欲しい、と言ったこともフォンテーヌという国家と彼女の付き合い方の現れ、というのは考えすぎかもしれないが、そう感じたのである。

〇何故モンド勢は出禁?


 夏イベと言えばモンド勢!とは限らないと冒頭でも言ったが、それでもこの話にはクレーとアルベトとモナは必要だった!と憤慨していた人はよく見かけた。
 自分はアルベトがいたらドゥリンとの決着はちびドゥリンという「無害な存在への置換」にならなかったと思っている。

 もしかしたらモンド勢中心になることからの脱却を前提にして話を組み立てたのかも?とはちょっと考えた。
 モンド勢中心だったら多分全然違うストーリーと結末になっただろうから、それはそれで見たくもある。というか錬金術イベがストーリー面では薄味でまさかのアルベド不参加だった反動もあってモンド勢を望む声が上がったところもあるのではないだろうか。今年に入ってから海灯祭以外のテーマイベント不作気味、というか無い時すらあったから……。

 モナは世界の答えにすぐ辿り着くから除外。
 ドゥリンの救済に必要だったのは「悪龍ドゥリンをろくに知らないこと」と「鏡面世界と投影のカラクリを知らないままミッションを完遂すること」。
 モンド人にとって悪龍ドゥリンは実際の歴史の話だし、ドラスパは近く、トワリンは未だ毒に苦しんでおり、侵された土地は現存し、被害者の家系も存在しているだろう。ドゥリンを見る時に被害者の立場やその恐怖を一ミリも考えないというのは無理な話だ。
 無論この投影ドゥリンは本物の討伐されたドゥリンとは違う存在ではあるが……。

 テイワットはPC上の架空の世界じゃないか、という話はVer1.1で追加された鍾離の伝説任務でバックアップという単語が出た瞬間から常に議論されてきた。
 そのため自分はテイワットの様々なシステムはPCと同じ感覚で説明出来てしまうのかもしれないと考えている。

 例えばシムランカというこの鏡面世界は言わばテイワットというファイルをコピーして作ったテイワット´で、二つのファイルは互換性がある。

 しかしモンド人は童話と昔から慣れ親しんでいる&アリスが面白別世界を作ってくれるのはよくあることなため、シムランカをテイワットの投影ではなく新たな世界シムランカと受け入れてしまう。
 つまりテイワットとシムランカ、とファイル名を変更してフォルダ分けをしてしまい、紐づけが解除されてしまうと考えるとわかりやすい。
 だからちびドゥリンという新たなファイルがテイワット´に存在したのを確認してからアリスはアルベトを呼んだのだ。

〇アルベドはどうやって現実のドゥリンを救うのか


 じゃあどうしてアルベドを呼んだかというと、PCファイルと錬金術とはある概念が同等だからだ。
 それが「置換」である。
 錬金術と言えば石を金に換える「価値の創造」が有名だが、毒を薬に換える「本質の置換」という医療化学も捨てがたい

 薔薇十字団の公表した文章には「真の錬金術の目標は病人を治療する新しい医療化学、人々を叡智に導き、神と人間の世界を改革することとされた」とWikipediaにも書いてあるぞ。
 自分は価値の創造に重きを置いた時代がレインドット的、パラケルスス~薔薇十字団の頃の普遍医薬の時代がアルベド的な錬金術だと考えている。
 アルベド好きはフランセス・イエイツ著『薔薇十字の覚醒: 隠されたヨーロッパ精神史』とかを読むのもおすすめかも。

 元々テイワットの歴史は酷く不安定で弱い。それは書き換えシステムが基本搭載されているからだ。
 所定の手続きさえ完了すれば誰がどんな思惑でも世界を改変できてしまう。それが「それしかない」マハールッカデヴァータと「個人の願いで悪用した」スカラマシュの対比として魔神任務で描かれていた。

 マハールッカデヴァータが「検索と置換」で「検索する文字列マハールッカデヴァータ」「置換後の文字列クラクサナリデビ」を入力し「全て置換」を選択した、スカラマシュが「検索と置換」で「検索する文字列スカラマシュ」「置換後の文字列」には空白のままで入力せず「全て置換」を選択し削除となった。

 だが文書には     が大暴れしました、という前後の文章だけが残っているため、恐らく天理やそれに類似する存在(FGOだと人理かな)が「何が大暴れしたんだろう?近似データからそれらしい人の名前で埋めておくか……」とSFでよく見られる”歴史の修正力”によって文章の生成を試みて、スカラマシュの行いがその時その時で一番やる可能性のある他の誰かの行いに書き換えられた、という感じ。

 そして今まで脆弱性として描かれていた、個人の思惑で改変できてしまう世界の不安定さを逆手にとり、つまりこの世界は定められた運命に介入出来るのでは?というのがシムランカでの顛末を見聞きしたアルベドの主張である。

 存在するだけで毒をまき散らし世界を腐敗させるドゥリンを、ちびドゥリンのファイルを使い無害な生き物に置き換えることで解決出来るかもしれないのだ。
 この方法は多分、最初から錬金術が答えとして提示されていたのだ。

〇アルベドの意志かアリスの願いかレインドットの計略か


 モンドにだけ何故錬金術が浸透したのか。作戦部隊として成立するほど錬金術が広く”慕われる”道を選んだのは何故か。その錬金術をテイワット中に広めることをしだしたのは何故か。地盤を固めてから更なる知恵と発展を求めたのだとしたら、それは大きな作戦のためだと考える
 それはこの世界に存在出来ない生き物の運命を変えるため、という天理に喧嘩を売るような行為ではなかろうか。

 この定められた運命への介入、は大きなところではフォカロルスの天理を騙してフォンテーヌ人を本物の人間にしてみせたり、小さなところではアルハイゼンが言葉という魔法を使ってカーヴェに寄り添い続けることだったりする。

 7月にニューラルクラウドという神ゲーでシュタインズ・ゲートとコラボをしていたが、シナリオが面白く歴史改変モノのSFとしてよく出来てるな~~~と大変満足している。
 そこで運命を扱うSF作品で頻出する『世界を騙す』概念が出来て原神とのシンクロニシティを感じたのだ。

天理「ドゥリンってのはテイワットと相容れない毒を持つ龍なんや」
アルベド「せやけど毒のないドゥリンもここにおるで」<ちびドゥリンポイー
天理「せやったらドゥリンの本質は世界を侵す毒を持った龍やないんか……」
 →ドゥリン=毒、の概念の弱化。運命との繋がりが弱まるから錬金術による転換の隙が生まれる
アルベド「せやで。で、毒がないなら相容れない理由もないと思うんやけど……?」
 →ドゥリン=テイワットと敵対する生物という概念の弱化・撤回・もしくは更新を狙う

 この辺は記号論理学の述語論理の分野が近しいと思うが、オタクだとわかりやすい単語があるんですよね。

 『概念バトル』です。
 ほよばは型月のフォロワーとして概念バトルをストーリーに取り入れたに違いない。
 勿論これらは適当を言っています。言いがかりなら任せてください。

 天理だか運命だか偽りの星空だか知らないが、彼らの認識をハックして事象=運命の書き換えを、大規模なペテンやマジックをしていくぜというのがアルベドの計画と考えられる。
 詐欺には事前準備と頭数が必要だ。
 やらかす時には放浪者のみならず旅人も呼んでくれよな。

〇何故スメールで終わるのか?


 まずスメールとシムランカの共通点、対比、再演性についてはもう語った事である。
 鏡、実像、鏡像、虚像を社会や人間と重ねて語る手法はすでにアルハイゼンのキャラストと伝説任務でも行っており、それについてはかつてnoteで散々語ったため「進研ゼミでやったところだ!!」とはしゃいだりもした。

 スメールで始まりスメールで終わる理由の一つに今の放浪者が帰る場所である=勇者の行きて帰りし物語というは童話にありがちな物語類型であるから。
 ……というのもあるが、スメールの魔神任務ですでに『夢と現実の区別がつかなくなると目覚めることが困難になるため、ニィロウが自分から気づかねばならない』というシークエンスがあった。

 ところがズバィルシアターにはアーモンドやパティサラがいる。
 二つの世界が健全に影響を与えあうためには、その境界線が明確でなければならない。いわゆる『現実と空想の区別がついてない奴』の悪影響はここで語るまでもない。
 夢と現実の区別、幻想と現実、童話と真実の歴史の境界線はきっちりとつけないといけないのだ。
 ここでも魔神任務の再演のためにスメールで現実に戻ってこないといけない

 神々や元素力や魔女のいるテイワットではどうしても距離が近くなる虚構と現実だが、今回は童話である。

 童話の終わり方は一つだ。めでたしめでたしではなく……『『『本を閉じて棚に戻す』』』

 魔法を終わらせるには終わりの呪文が必要だろう。「こっくりさんお帰りください」「私の勝ちと三回宣言する」「お札を燃やす」「藁人形を川に流す」それと同じである。
 これは日常に戻るためのある種の儀式だ。魔法は上記のように、そして我々は本を閉じて棚に戻すことで、TVやPCの電源を切ることで、アプリやスマホを閉じることで、虚構の世界から戻ってくるのだ。

 その終わりや帰還の儀式を鏡面に映らない存在=天国や楽園を映す鏡そのものであるカーヴェが担っているのが後日談おまけページの妙だろう。

〇何故二年連続で夏イベの影にカーヴェがいるのか


 原神で繰り返し語られてきた「現実の悲しみを空想で昇華する」「現実で叶えない理想を空想で叶える」ストーリーには、「空想から影響を受けて現実で頑張っていく」申鶴「現実の悲しみを現実で乗り越える」「現実の理想を現実で叶える」カーヴェが対比として用意されている。

 彼は去年も瓶の国で、つまり砂漠のオアシスでしずくちゃんのための街だけ作って帰った。彼の手掛けた銀瓶の庭はしずくちゃんに合わせたファンシーな街ではあったが、ファンタジーな/奇抜な家は一つもなく、その気になればスメールでも作れる。
 そして今年もひと夏の楽園の奇跡を否定するわけではなくむしろ同じ、価値が無いとされた本が五人の祝福を経て特別な一冊となり受け入れられ居場所が出来る話、をなぞるようにしながらも、きちんと終わらせたのだ。
 二年連続で線引きを任されているなら来年も彼がきっちりと終わらせてくれそう。

 カーヴェは明確に「灯台を直し」「橋をかけ」「道を作り」「町や家を建てた」功績があるので、魔術的には別世界を作ったり世界同士を繋いだり行き先や帰り道を導いたりする”魔法使い”である

 自分はここに”カーヴェが現実の魔法使い”&”魔女会との対比はクリエイター説”をわりと真面目に提唱する。

 概念的には同等なので魔女の作る世界の対抗馬になれる。概念バトルなら任せろ。

 何故彼がデザイナーなのかをずっと考えていた。自由意志と自己決定により家族を自分で選び家も自分で作る、というスメールのテーマに則ったものだと結論付けたが、実はこれだと建築家でもいいじゃん、と思ってもいたからだ。
 だがデザイナーは『頭の中の/空想の/理想の/まだこの世にないモノを描く=魔法陣の錬成→現実に顕現させるから』なのかもしれない。

 彼のスキルの紋様はアルハイゼン(恐らく言葉の魔法使い的役割)と共に作った魔法陣とも言える。
 だから二人の共同研究が再び行われることがあったら、概念的にはシムランカのような”世界”を作れるのかも。
 今回もちびドゥリンを思わせる顛末となった本は二人の行いから発生し二人の家に収蔵することになったから、まぁだいたい新世界の創造みたいな話だから共同研究と言えるのだけれども。

 カーヴェの星座は極楽鳥=楽園に住む鳥なので彼がファンタジーな楽園に縁が無い理由は、現実を楽園に作り上げていく=彼のいる場所こそが楽園というキャラとして作られているからと思えてきた。
 現実=テイワットって楽園に作り変えることは出来るんですか?運命って全て決められているんですよね?にきちんと「待った」がかけられたのがシムランカだから、ここでカーヴェが出てくるのは妥当かもしれない。

 ここまで書いた後に世界任務『ナレーションの補足』をプレイし、ポポラーノが「理論上は終わったが、儀式は心の状態を切り替える役割を持つと聞く」とバッチリ終わりの儀式の話をしていた上に「世界を創造する設計図」のワードも出てきたことから、やはり建築デザイナーって現実の魔法使いを意識しているのかもな~と感じた。
 「家が完成さえすれば大工や設計図が消えてもかまわない」でもわざわざその例えだし。

〇魔法使いカーヴェ、魔術師リネと千織


 奇術師ではなく魔術師を名乗っているリネだが、彼もまた虚構を創り出すクリエイターだ。もっとも彼はマジックをもって「現実に虚構を認識させる」であるが。
 彼は人々の精神や認識をコントロールして介入する。そこに”それ”がある/無いと信じさせられたら、その人の中で”それ”がある/無いは真実となる。虚構と真実の境目を自在に埋め込む/取っ払うといっても過言ではない。アルベドの項目で出た世界を騙す、と関連性があるね。

 服飾デザイナーの千織も二人の例に則ると魔術師だ。ただし彼女はもっと狭い世界である『個人』に介入する魔法を使う。
 端的に言えば「今日のオレはカッコいい服を着ているのであの子に話しかけることが出来た」「似合う服を着ている私は無敵。自信をもって発表会に出れる」という、『運命は性格によって決まる』の性格によるその場その場の判断や勇気に、服によって介入できるという感じ。

 この運命は性格によって決まる話はアルハイゼンがカーヴェ実装時の短冊で言った言葉だが、原神の運命論における滅茶苦茶重要なワードだと思う。 
 そんなところで言うな&つまりそれって世界の秘密に迫っているということなので知識欲の塊のアルハイゼンが根源の六罪に興味無い理由が「俺だけのモナリザ もうとっくに出会ってたから」概念かもしれない。なんか腹立つな。
 アルハイゼン宇多田ヒカル説(君に夢中も似合う。『ここから先はプライベート』だから)

 魔女に対比される存在がクリエイター/表現者なのは人間賛歌で創作賛歌なほよバースらしい考えだと思う。

 余談・人間の価値に変な強迫観念を付与するミームなので好きではないが、30まで童貞だと魔法使いになれると言われている。魔法使いカーヴェのことを考えていたら作中でカーヴェだけが何故かアラサーと明言されている理由にぶち当たる事故が自分の脳内で発生した。
 彼は過去のことがあり家族に対し後ろめたい気持ちを抱き、他人の厚意を受け入れられないという公式設定がある。つまり女性とお付き合いをしたり、子供が出来るような行為=家族を不幸にした自分が家族を作るような無責任な悪事は絶対に選択できなかった可能性が高い。
 そして現在彼氏みたいな奴がいる(所説アリ)。
 関係性はおいておき、男同士でつるんで満足しているので30越えても今みたいな生活をしていそうなのは確か。

 更に余談だが、何故男は純潔を保つと魔法を使えるのだろう。魔女と魔術の関係は常に性に関連づけられており、魔女は多くの人間と交わるか、契約した相手と交わることで力を増幅させていく。無論ペイガニズムへの弾圧の側面もあるが(野蛮で不潔というイメージの植え付けの結果)、今日のウィッカ、ネオペイガニズム、サタニズムなど様々な宗派や学問において魔女や魔術と性的交わりを用いた儀式は関わりが深い。

 ミームはミームだろ、と言いたい気持ちもあるが、魔術的にはミームはミームとして成立した時点で新しい概念として成立し世界に適用されるものだ。だからもう魔術的には”そうなっている”と考えられるのではなかろうか。

 つまり二つを連結すると、男として純潔で女として淫奔、が最も強い魔法使いになれるってこと……?
 何の話?

 ともかくかつて「言葉の力を侮るな」と言った、言葉の魔法を信じているアルハイゼンと、テイワット側の魔法使いカーヴェの二人で始まり二人で終わった後日談は、シムランカをきっちりと終わらせるに相応しい二人であるということで。
 ちゃんちゃん。

〇長靴を履いた猫は嘘/虚構、真実/現実に繋がる?


 魔神任務にも出ておらず稲妻代表を名乗るには新米な綺良々が何故抜擢されたかの理由をこの夏中考えていた。
 無論出番があるからには役割が無いといけないというのは窮屈だし自由度が制限される考えだから普段はしないが色々あって延々と考えてしまった。

 そうして答えは彼女自身ではなく配布コスチュームのネタ元である童話『長靴を履いた猫』にあった……かもしれない?と気づいたのだ。
 彼女のコスチュームは日本名「麗しき怪傑」と説明文の「弱きを助ける剣士」のため自分は怪傑ゾロだと思い本当に文脈が不明だったのだが、英語では「Phantom in Boots」であり長靴を履いた猫の英語名「Puss in Boots」とかけているのだ。
 ちなみに韓国版だと義賊キラにゃん、タイ版だとシャドウブーツ、ロシア版とフランス版とブラジル版もPhantom in Bootsをその国の言語で表したものである。
 つまり長靴を履いた猫を一切匂わせない日本版が少数派のようだ。

 無茶苦茶乱雑にこの話をまとめるならば「嘘をあの手この手(犯罪行為含む)でつき続けて騙し通して大勝利」である。
 自分がこの話を童話によくある知恵者の機転で人生が上手くいった話だけとは思えない理由は、最初からずっと嘘をついていて、嘘がバレないように立ち回ることに知恵を使っているからで、これこそがこの話の特徴的な部分だと考えている。

 ペローはこの話の教訓として「遺産を当てにするのは間違いではないが知恵や世渡りのうまさの方が貰った財産より値打ちがある」と語っている。
 ※澁澤龍彦訳版。上記は意訳なので原文を確認してね

 誠実さや正直さを武器にしていないところが大衆に受けた部分ではないだろうか。勿論民話の多くは教訓よりもオモロを重要視しているものも多く、笑えたら/登場人物を馬鹿にできて苦労を一瞬でも忘れられたらそれでよしという物もある。
 だからこそ童話=寓話性の高いものとなった現代の映像作品などでは猫の主人が嘘に耐えきれず姫様に正直に真実を話すシークエンスが追加されたりしている。

 綺良々が出てくる世界任務「ナレーションの補足」ではシムランカが虚構世界だと気づいた探偵がナレーションのふりをして、それぞれ違う伝説を信じる三人を操り真実は本の外と内のいったいどちらなのかを知ろうとする話だ。
 三人は自分の家系が語り継ぐ伝説こそが正しく他の二人は嘘つきだと言っているが、全ての伝説が正しい証拠が出てきてしまったために困惑する。
 
 しかしそれは著者であるアンデシュドッテルが「思いついた話のうちどれを採用しようか迷ったまま未完になった」上に「ペットの猫が机の上をぐちゃぐちゃにして三つの案すべてがシムランカに反映された」ことが理由である。

 三人は全ての伝説が真実なのだと納得したが、探偵もといナレーションは試練の体で「外の世界の虚構とこの世界の真実、よりリアルなのは?」「外の世界が夢ではないと誰が断言できよう?」などと訴えていた通り、虚構と真実について思い悩んでいた。

 そんな彼に語りかけたのは本物のナレーション及び地の文であるアンデシュドッテル(の意識体みたいなもの)だった。

「童話が子供たちにとっていい理由は、世界を理解するのに役立つからよ」
童話は確かにフィクションだけど、その根底には世界の真実が凝縮されてる。善悪の設定が単純だったり、暗喩で闇を隠したりはしてるけど…」
童話が真実の世界を含んでるのは紛れもない事実。同じように、君たちも真実と呼べる存在なの」
(セリフより抜粋)

 これで探偵は自分の存在を否定することを止め、自分自身を受け入れて一件落着となったわけだ。

 ここで同じ童話の長靴を履いた猫の話に戻る。
 じゃあ「時には買収や恐喝を行ってまで野望を叶えよう」「現実ではこういう形で公爵を名乗る奴もいるよ」「詐欺もやる側から見ると立身出世みたいになるね」と言う身も蓋も無い『真実』をゲーム外/三次元の現実に言っているのかというとそうじゃない。原神にはちょうど公爵だけいるのもちょっと面白いけど。

「童話に書かれているのは真実とも言える=ちびドゥリンもとうに真実と呼べる存在だった」(概念バトル)
「虚構側から真実側へのアプローチ(ちびドゥリンを使ってドゥリンの運命を書き換える)にはあの手この手を使って何もかも騙し通せよ。手段を選ぶなよ」
とゲーム内/テイワットに対して言っているのではなかろうか。

 やはりオオカミ少年とためを張れるくらい『嘘(作り話/虚構)』がキーワードのこの童話が選ばれたってことは、そこにこそ意味があるのかなと思った。こじつけかだけどね。

〇まとめ&最後に


 スメールでの魔神任務や夢境システムや世界改変や、改変後に物語として残る真実や鏡の話を思い出してね、でニィロウ。
 フォンテーヌでの愛や正義は神から人に受け継がれ、運命や預言から解き放たれ自分の足で歩いていく”自分を選んだ”のだ、でナヴィア。
 嘘/虚構、真実/現実について三次元の童話と二次元のゲームを使って考えさせてくるトリックスターの綺良々。

 ずっと続いてきた創造主と創造物、親と子、神と人、自由意志、選択の権利の集大成の存在であり、最も重い罪は罪を犯したことではなく償う機会を捨てたことではないかという答えに、『日常』を得たことで辿り着いた放浪者。

 童話に慣れ親しむ故に世界をそのまま受け入れてしてしまい置換のペテンの邪魔をするからこそ、決着がついてから来るしかなかったモンド勢。
 現実でも童話みたいな面白い何かって起こるよ。本は読み終えたら棚に戻して、今度は自分で選んで童話みたいに理想の現実を作っていこうね、という締めくくりでスメール。
 原神オールキャラほのぼの日常アニメスメール編のエンディングテーマはcharaの『ミルク』でお願いします。

 まとめるとこんな感じだろうか。
 無論、これらは自分が勝手に言っていることである。あなたの思考をまとめる時の手助けになれば幸いだが「全然違うし!」と思った時は無かったことにして忘れて構わない。
 何はともあれ原作であるゲームが全てだ。後から細かい説明がされたりひっくり返されたりすることもあるが、それ込みで考えることを楽しもう

 居もしない姫や果たせるはずもない使命を巡るカエルとモモンガ、灯台と旅を巡る友人達の話などシムランカのサイドストーリーは全て前向きな寂しさを含んだものとなっている。
 まだ隅々まで遊んでいないという方は、宝箱回収ついでに色々見て回ってほしい。

 魔女会は正義の集団ではないし、彼女達の愛が全ての人間に正しい形で降り注いでいるわけではない。
 かつてモンドに侵攻してきた敵対勢力であり、レインドットを筆頭として現在も様々な形で世界に無視出来ない痕跡を残している危険な集団でもある。
 ウェンティとかいう株が上がり続ける神。

 しかしアリスがクレーに向ける愛情や仲間内での友情、そしてドゥリンに寄せた同情などは我々の知る愛と同じだと感じられる
 以前別の記事で善行と悪行はそれぞれ分けて評価するべきと書いたが、自分のスタンスは魔女会に対してもそうだ。ろくでもね~~~と思いながらも毎年の夏イベや今回のちびドゥリンのことなどはありがとうだぜ……と思っている。

 予告番組の発言からナタの魔神任務の更新が5.0、5.1、5.3になるかもと囁かれている。
 この開いた5.2がちょうど冬なので、所謂雪山イベと言われるドラゴンスパインでドゥリン関連のシナリオイベントが来るのではないか?と予測されているが、本当にそうだったら胸熱である。

 何はともあれまもなく開放される新国ナタも順次開催されるであろう各国のシナリオイベントも楽しみにしたい。
 今年度こそスメールのボイス付きシナリオイベントが来ないと泣いちゃうぞ。ナヒーダと遊ばせてくれ

 ここまで読んでくれてありがとう。


 私事だがオールキャラほのぼの楽団の一員として最近二次創作でSSを書いてみている(所属人数一人)。
 しかし書くのも仕上げるのも非常に大変なので、友人の監視もとい友人との共同作品と言えどもシムランカを作り上げたり何本もお話を書いているアンデシュドッテルや魔女たちって凄いなぁと思いました。
 ぼくにはとてもできない。――夏休みの作文

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