年末の慌ただしい空気の中自分だけが感じる気持ち
年末になると思い出すこと。
それは精神科に入院していたときのこと。
2020年の11月、
うつ病で定期的に通っていた心療内科では手に負えない人間に私はなってしまっていた。
かなり強い睡眠薬を大量に、しかも酒で流し込んで
首をつろうとした。
しぬのはなんだかんだ怖かったから、意識朦朧とさせてからやろうと画策していたのだ。
薬と酒を次々流し込んだせいで体に力が入らなくなり、首をくくるに至らなかった。
非常に詰めが甘いというか間抜けだが、
これが今も生きていられる要因なので間抜けな人間で良かったと今ではつくづく思う。
それが出勤前の早朝のことだった。
猫と二人暮らしだったため、
無断欠勤をやらかしたことで、職場から母に連絡が入り、母と父と祖母で私の家に来て発覚→救急へ。
何日で目覚めたとか、直後のことは睡眠薬が入っていたせいで覚えていないが、
その後精神科、それも時間外緊急窓口のようなところを案内された。
精神科的に危険な人間じゃないとまず繋がないところだったようだ。
後々知ったが、他人か自分自身を今すぐにでも傷つける可能性が高い人間が、精神科や心療内科にとって最たる危険人物らしい。
それに私はなっていた。
その緊急時間外窓口に紹介され、今も通院している精神科病院の理事長先生が当番としていらっしゃり、お話をした。
私はまだ呂律もまわってない、少し朦朧とした状態だったので、記憶が薄いのだが、すごく優しい先生だった印象はある。
理事長先生といったら、偉そうなクソジジィを思い浮かべてしまいがちだが(完全な偏見ですが……)、物腰柔らかく、真剣に話していただいたことは覚えている。
私は同じ年の5月にも似たようなことで別の病院で入院していたこともあり、入院すると自由がなくなり、スマホも取り上げられ、他の患者さんの症状を見ることがきつかったこともあり、
入院したくない、家で療養すると私は抵抗したが、
病院の薬を乱用するような人間に薬を渡して家に帰すことなんてできるわけがなく、理事長先生に入院するよう説得され続けた。
私たちに〇〇さん(私)の心を預けていただけませんか?
今しっかり休んでほしいんです。休みましょう?
はっきりしない意識の中でも断片的に覚えているソフトな口調で言ってくれた理事長先生の言葉。
ここなら大丈夫かもしれない、そう思って私は最後には自分の意思で入院を決めた。
そうと決まれば入院準備。
いったん帰宅し、母と一緒に荷造り。
翌日に入院手続きをし、入院。
……のまえに、看護師さんによる病室に持ち込む持ち物のチェックがあったのだが、これが抜かりない。
筆記用具を入れた筆箱の中身に金属製のものさしが入っていたのだが、これが命を断つ道具になりかねないと退院するまで取り上げられた。
き、厳しい……。
私は本当に何も考えてなくてただ筆箱を持ってきて、その中にたまたまものさしが入ってただけだったのだけど。
スマホの充電用のコードも、ものさしと同じ理由で看護師さん預かりとなり、充電するときは看護師さんにスマホを預けて充電してもらうシステムだった。
入院生活はとにかく寝る、1日3食食べる、何も考えなくても削るだけでできるスクラッチアートや、余計なことは考えず集中できる数独をやったり、個室を出て共有部でテレビを見たり読書したり(といっても病のせいか当時は文字は追えても頭にはあまり入らなかったが)。
この病院ではスマホは取り上げられなくて、自由に過ごしていた。
とにかく休むことに徹する。
やる気がないときは食事以外寝てたりもした。
平日は毎日担当医(理事長ではなく、別の医師がついた)が診察というか事細かな話を聞いてくれたし、担当医も明け透けに自身の話をしてくれた。
自分のことをオープンに話してくれるのがとても信頼できた、大好きな先生である(外来の今も主治医)。
研修医もたまに来ては、雑談してくれた。
少しだけやな感じの看護師さんも居なくはなかったが、
まあ精神科ってストレス溜まりそうだもんな〜看護師さんたちも大変だよな〜私も働いたらやな感じになりそうだな〜としか思っていなかった。
入院中も穏やかに過ぎ去ったわけではなく、
泣き叫んだりすることもあったし、悪化してるのでは?という心の浮き沈みもありながらだったが、退院までなんとか漕ぎ着けた。
退院はクリスマスだった。
退院したその足で職場に行って、病室からも電話で伝えてはいた退職の旨を直接伝えて退職。
悔いはあった。
夢だったエンタメ系に裏方として携われる職場だったから。
自分を信頼してくれてた人が少なからず居てくれたのに、その人たちを裏切ったような気がしたから。
退職は自分で決めたはずなのに、胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。
退院は喜ばしかったけど、その日は苦しくて泣いた。
でも自分が決めたことだったし、ハラスメントがある職場でそれが苦しかったから見切りをつけたんだと、言い聞かせた。
今はそれで良かったと心から思う。
あのまままたあの職場に戻っていたら、遅かれ早かれまた心が壊れていたと思うから。
退院してからも、半年は自宅で療養。無職でした。
とにかく、だらだら休んでいた。
他人から見たら、働きもせず、家事もせず、完全に怠け者に見える状態だったし、それをずっと隣で見ていたのに、何も文句も言わず暖かく見守ってくれた母。
それが私の心が癒えた大きな要因だと思う。
あのときは、こんなんで社会復帰なんてできるのかな?とだらだらしながら、不安でいっぱいだった。
でも、今時間が経って分かるのは、
人はエネルギーがあれば、誰に何を言われなくてもやりたいことが出てきて勝手に行動する。
行動できないとか、やりたいことが分からないときというのは、エネルギーがなくなってしまっているということなんだと思うし、休むことが必要なんだと思う。
あの入院〜半年無職の期間は、電池切れの自分を充電していた期間として必要な期間だったんだと、今は思える。
年が明けたら、抗うつ薬の減薬が始まる。
精神科通院の終わりの始まり。
2024年中には精神科卒業できたらいいなあと思っているし、その目標が現実味を帯びていて、少しわくわくしている。
3年で状況は大きく変わった。
また来年の今頃、成長したなと思いたい。
いい意味で変わったと思いたい。
そんな思いを馳せる年末。
来年は
私にとっても、誰にとっても、
良い一年になりますように祈っています。
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