【読書記録】副題そのまま 豪華絢爛ヴェルサイユ宮殿で繰り広げられた愛と欲望(というよりむしろ“愛欲”)の歴史。
きわどい表現が多いです、、、、
、、、なので、180度開けて読むのが憚られたり、周囲に誰かいないか確かめてしまう場面が多い本でした。
ヴェルサイユ宮殿を舞台にしながら、フランス革命についてはほとんど言及がなく、登場人物たちの欲望が歴史の方向性を変えた的な展開もありません。代わりに説得力を持って語られるのは、ヴェルサイユ宮殿がいかに男女(時にはノンバイナリーな組み合わせも含んで)の欲望を発散させるのに都合の良い仕組みや装置を備えてきたか、広大な庭園のボスケ(※)や洞窟がいかに人目を避けて睦合うのに適していたか、そしてルイ14世やルイ15世、その寵姫や愛妾たち、宮廷人たちがその装置の中でいかに甘美なひとときを追求し、味わってきたか、、
17世紀の道徳的に退廃した宮廷にとどまらず、筆者が庭師として働いていた時代にも、庭園を散歩しに来る人たち、宮殿を見学に来る人たちが宮殿の人目につかない物陰や庭園の茂みの中で、同様の行為に及ぶことは珍しくなかったというから驚きです、、
著者は庭師
著者のアラン・バトルはヴェルサイユ宮殿の庭園で30年以上働き、「トリアノンの庭園」の主任庭師を務めた人物。歴史にも造詣が深いという紹介文通り、本書も、国王や様々な宮廷人の日記や当時巷で流布していた戯れ歌や風刺・中傷パンフレットなどの記録を参照にしたことが随所に伺われます。
ただ、フランス革命当時の王室(特に王妃)に関する記録や記事には捏造も見られ、ツヴァイクは「マリー・アントワネット」を執筆するにあたり、「どの資料を使うかよりも、どの資料を使わないかの方が重要だ」と述べて、真実であると思われる資料のみを参考にしたといいます。
一方、この「ヴェルサイユの女たち」の筆者は、当時の流布物に脚色がある可能性も承知しつつ、また、「~なのではないだろうか」「~と私には思われる」という表現が出てくることから分かるように、ところどころを筆者個人の考察や想像力を働かせながら、宮殿や庭園で繰り広げられた「愛と欲望」、というよりは「愛欲」の世界を描きます。すべてが史実とは思わない方がいいし、登場人物の性格や行動・行為についてjudgementalにならないように気を付ける必要があります。
読後感は意外に高評価
というのは、読んでいる最中は、あけすけな描写、時には下司とさえ思える筆者の憶測に、不快とまではいかないけれども、眉をひそめながら読む感じがあったのに、読み終わって、いざこの読書記録を綴っていると、肉体の欲望に振り回されて生きたかのような登場人物たちが、等身大の生身の人間として確かな存在感を持ってそこにいる、そんな感覚になります。世界史に燦然と名を残すヴェルサイユ宮殿とそこに住まった人たちの、権力欲・打算・孤独・虚栄・愚かさ・意気地なさなどの非常に人間的な一面が性愛という形に濃縮されて描かれている(というかほぼそれのみが描かれている)この本には、肉体の欲望を、抑圧できない自然なものとして肯定する筆者の視点が感じられ、それは自然と対峙しつつ、人口の美を追求するヴェルサイユ宮殿の庭師である筆者だからこそ養い得たものなのかもしれません。
一方で、あまりにお粗末すぎる校正、、、
この本、図書館で借りました。初版本のようなので、第二版以降はきちんと修正されているかもしれませんが、誤字脱字が多い!学術書も多数出している、老舗と言っていい出版社だと思うんですが、、
例えば「第15章 後釜争い」
“しかしそこはルイ十五世のこと、本来の性癖がよみがえるのに時間はかか”、、、?なんとここで文が終わっています!びっくりした。
その他にも、「女たら(→女たち)と浮名を流す」「原題(→現代)の文明化した社会」など、少なくともあと3~4か所ぐらいは誤植があったはず。三人の方が翻訳を担当していますが、いい意味での「翻訳調」で統一感があり、無意味な修辞や日本語の持つ冗語性を排した非常に読みやすい訳文でした。下品な内容や下司な憶測にも関わらず嫌悪感や不快さを持たずに読み終えられたのは、この率直かつ知的な訳文のおかげでもあるので、なおさら「雑」としか言いようのない校正ミスが、本当に残念、、、
【追記】訳者あとがきに、この本を的確に評している部分があるので、抜粋します。
↑ この部分、私が抱いた読後感とかなりオーバーラップ、かなり共感、、、。園山千晶さん訳の他の本も読んでみたいなぁ、、、
マイブーム「ヴェルサイユ」熱はここから始まりました。
「マリー・アントワネット」byツヴァイク
「フランス革命の女たち」by池田理代子
「ヴェルサイユの庭師」つながりで、これも見たい。ケイト・ウィンスレット主演「ヴェルサイユの宮廷庭師」