椿屋四重奏が復活するって
椿屋四重奏の「ジャーニー」の歌詞で、うっかり涙があふれそうになってしまった。何年も聴き続けている曲だけど、こんなことは初めてだ。
勝手に、自分の人生と椿屋四重奏の歴史がリンクしたみたいに感じているのかもしれない。
TOKYO CITY RHAPSODYが出た2008年頃から椿屋の音楽を聴いている。
中学生の趣味としてはませすぎだと自分でも思うけど、
他の何にも似ていない音楽、他のどこでも見られない景色にとにかく夢中だった。
月数千円のお小遣いでは自由にCDは買えず、ましてやライブに行ったりはできなかった。
そんな中でも厳選して着うたフル(死語!)を買ったり、過去のアルバムを順番に買っていったりした。
新作が出れば飛びついたし何周も何周も聴いた。
椿屋がカバーした楽曲、影響を受けた音楽なんかもできる限りフォローした。そうして知って今でも好きな音楽がたくさんある。
わたしの2008年〜2011年頃は、いわゆる「10代のいちばん多感な時期」というやつだったが、
あまり陽気な子どもではなかったし、学校でも家でも嫌な出来事が多かった。
良かった日もそうでない日も椿屋の音楽を聴いた。
早退した日の真昼の自室で、保健室のカーテンの中でさめざめと泣きながら、眠れない夜の布団の中で。
いつでも椿屋の音楽のなかにだけは、輝きが、ときめきが、憧れが、安息があった。
念願叶って2010年末のカウントダウンライブに行けることになった。
でもその年が明けたら椿屋四重奏は解散した。
まだライブの余韻のなかにいた。椿屋四重奏実在したー、とふわふわした気持ちで。
お年玉でファンクラブに入会しようとも思っていた。
昼休みに届いたメルマガには、椿屋四重奏は「解散しました」とあった。
何回読み返しても理解も納得もできなくて、その日のお弁当は半分だけ食べて残した。
その2か月後に自宅や祖父母の家が大きな地震に見舞われ、年末には入退院を繰り返していた父が他界した。
そんなヘビーな出来事がいくつも起こったのが、わたしの2011年だった。
それから12年。
良かった日もそうでない日も、やっぱりいつも椿屋の音楽が、中田裕二の音楽がそばにあった。それはこれからも変わらないと確信している。
くしくもわたしが結婚する年に、椿屋四重奏のデビュー二十周年限定ライブが行われるという。
こんな、こんなご褒美みたいなことが、突然起こるものなのか。
2021年の再結成(そして再解散)もまだ記憶に新しい。あれが最初で最後、もう後にも先にもきっと無いのだろうとばかり思っていたからなおさら信じられない。
椿屋四重奏の解散は、さながら一生ものの大失恋だった。あんなに夢中にさせておいて、突然いなくなって。
いつもどこかにその影を探していた。
12年の間に沢山の楽しいこと、美しいものに出会った。それでも、椿屋四重奏にしか揺り動かされない心の部分が確かにある。
叶わないから苦しくて、それに蓋をして仕舞い込むのが常になっていたけど、この夏はそんなことしなくてもいい。
椿屋四重奏の次の活動を楽しみにできることがとにかく嬉しい。
あの頃、世界は最悪でも、椿屋四重奏の絶対的な存在に、その輝きに生かされていた。そんな気持ちを鮮明に思い出したりしている。
わたしが椿屋四重奏二十周年ライブの会場に行くことができるかどうかはまだわからない。
「再結成じゃない」「ひと夏の幻」だとしても、「椿屋四重奏のいる夏」であることだけで心が踊ってやまない。