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その歳に相応しいか

私は四十路の後半である。人生の一通りを通過したつもりでいる。今が最も人間性を問われる年齢だと痛感する日々を送っている。また、現在の自分が、今後の残りの人生を左右することも分かっている。

四十路とは、多くの失敗や失態を通過した者として君臨するべき時期ではないだろうか。失敗の果ての王様。大事な領域を自らが治めなくてはならない。勿論、これからも失敗や失態を犯してしまうだろう。しかし、それらは全くの無知から起こるものであってはならない。いくつになっても初めての感情や経験や出来事があるはずだが、知らないことに対しても、今までの知識と知恵と理解をもって臨むことになる。三十路までの恥も無知も醜態も混迷も、ここで生かしていけばいい。

私は幼少期から早く歳をとりたかった。いつもまだ30か……、まだ40か……と、特別なことは何もしないくせに年齢がなかなか進まないことを嘆くかのように生きていた。43歳頃になってやっと、そろそろ自分が待ち望んでいた年齢になってきたなと感じた。

いつも大人に憧憬があった。子供っぽくみられたことはないが、子供っぽいことは恥ずべきことであり、かわいいとはつまり阿呆だということと符号する。子供をかわいいと感じるのは、子供らしく無知で無垢だからだ。それを大人になってもかわいいと言われてはたまったものではない。大人であるが故のかわいさは、時折現れるだけで十分だ。

人によっては、生まれ持った若々しさというものがある。幾つになっても若々しく見えることは大いに利点だ。但し、その生まれ持った若々しさに甘んずることなかれ。運動、食事、美容、整形、話題のトピックスで若く見えるのは良いことだ。但し、そのことに甘んずることなかれ。外見が若く見えることと内面が若々しいことは、決定的相違だ。

実年齢より若く見られることに喜ぶのではなく、その精神がいつも若々しく、新旧含めて学ぼうとしていることが大事ではないか。永久の美は存在しないことを誰もが知っている。既に知っていることに、抗う必要があるだろうか。幼さという若さは、脆弱で病みやすい。幾つになっても精神的に幼いのと精神的に若いことは全く違う。精神的若々しさは、自分自身も周囲の人々も明朗にさせる。それはどんなにか素晴らしいことだろう。これほど人間関係を円滑にするものはないと言っても過言ではないと信じている。

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