【漫画原作部門】 ホーリースピリット 第1話 〈創作大賞2024〉
【あらすじ】
【登場人物】 ※第1話中盤まで
第1話 桜の樹の下 (9502字)
◯ プロローグ
気が付くと、ソラは水の中に放り出されていた。
泳ぎが不得意なので、この状況は本来焦るべきだと思う。それでもソラは手足を動かさず、水面に浮上していく泡を見ていた。
いっそこのまま泉の養分にでもなれば、私も…少しは何かの役に立てるかもしれない。ソラはゆっくり瞼を閉じた。
「え?」
水に包まれる感覚が消えて、目を開けると。ソラは地面に立っていた。
確かに感じる重力、しかし服を触ると綺麗さっぱり乾いている。頭はついていかないが、不思議なくらい冷静に、ソラは目の前の相手と視線を交えた。
『この泉を墓場にされるのは困る』
「・・・ですよね」
ここは、天龍さまが創ったとされる神聖な泉なのだ。王族やスピリットマイスターですら泉に入ることは許されない・・・
「て、てん…天、龍さま!?」
『その名で呼ぶな』
龍のその美しい姿に、ソラは瞬きの仕方を忘れてしまった。
青碧の瞳は、近くで見ると宝石のようだった。月明かりを受けた白銀の鱗はキラキラと輝き、黄金のたてがみが風になびいている。巨大な身体の半分は泉に浸かり、絵に描かれていた立派な角は・・・片方しかなかった。
『これは、人間に持っていかれた』
龍はソラの視線に気づき、根本から折れている右角を前足で指差した。
『私は、お前が信じているような神ではない』
春の風がソラと龍の間を吹き抜ける。泉を囲うように生えている桜のざわめく音がする。
『泉の中でしか生きられない今の私は、蛇も同然』
「え…?」
『空を舞うこともできない龍は…龍ではない』
無数の花びらが夜空に舞っているのを、龍は見上げた。月が不気味なくらい明るく輝いている。空を踊った花びらは、泉に絨毯をつくっていく。
この絶景を、桜が織りなすこの景色を…ソラは、あの日見たかったのだ。
「待って」
泉の中に戻ろうとした龍は首だけで振り返ると、月光に照らされたソラの瞳から目を離せなくなった。
「・・・やっと、あなたに逢えた」
龍に近づくと、ソラはそっと右手を伸ばした。そのまましなやかな金のたてがみに手を這わす。龍はゆっくりと瞼を閉じて、それを受け入れる。
「私の名前はソラ。私のすべてをあげるから…あなたの名前を教えて」
青碧色の瞳が開いて、ソラと目を合わせる。ソラはそのまま柔らかく微笑むと・・・龍のたてがみに付いた桜の花びらを摘み、泉に落とした。
ソラと龍の背後には、古びた神殿がそびえ建つ。その壁には、こう記されているーー。
◯ 三年前ーー ソラの暮らす家
コンコンと窓を叩く音に、青碧の瞳がパチリと開く。
「ソラ!起きてよ、ソラ」
「ワン、ワン!」
外から聞こえてきた少年と犬の声に、ベッドから身体を起こした寝癖少女。窓からは朝日が少しだけ溢れている。
ソラはのっそりとベッドから起き上がった。部屋から出ると、スープの匂いが鼻に入ってくる。台所に立つ祖父ノルドの足元には一匹の犬。ソラに気付くと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「やっと起きたか」
「おはよう…じっちゃん、フィノ」
「ワン!」
欠伸をするソラの背後から、ガチャリと玄関のドアが開く。ソラと同じ年頃の少年、イルルが薪を持って入ってきた。
「おはよう、ソラ。今日も…いい寝癖だね」
「イルルは…朝から整いすぎじゃない?」
毛布に身を包んでいるソラはまだ寝ぼけ眼で、こんがらかった深緑の髪は鳥の巣状態だ。対してイルルは整えられた丸みのある銀髪に、透き通ったブルーの瞳が今日も可愛らしい。いつも男女逆じゃないか?とソラは思う。
「今日もどこかのお坊ちゃまみたい」
「え?」
イルルは叔父と近くの小さい村に住んでいるが、しっかりとした防寒マントの下、白シャツにリボン結びにした黒のタイ…いつも庶民にしては小綺麗な風貌なのだ。
「ノルドさん、薪ここに置いておきますね」
「イルル、いつもありがとう」
「わ、なに!」
「婆さんに似て、ソラは相変わらず朝が弱いなぁ」
ソラの頭をノルドが大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でた。ソラは少し鬱陶しそうにノルドの手から逃れると、今度はフィノに飛びかかられて暖炉の前に倒れ込むように座った。
このじゃれ合いも見慣れた光景なのに、イルルはいつも羨ましく思う。視線を切って暖炉上の棚を見ると、年配女性の写真と小さな龍の像が飾られている。
「イルルも食べるかい?」
ノルドは寂しげなイルルの背中に近付くと、その頭に後ろからぽすっと手を乗せた。いつの間にか足元にフィノも擦り寄っていて、イルルを見上げていた。
「・・・じゃあ、お言葉に甘えて」
フィノのふわふわの毛並みを撫でると、イルルの心は落ち着いていく。表情が和らいだことに安堵して、ノルドは二人にスープをよそった。
暖炉の前に座るソラ、イルル、フィノ。薪がパチパチと音を立てている。
「イルル、今日も一緒に来るの?」
「・・・行かない方がいい?」
「いや、狩りの見学そんなに楽しいかなって…やるわけでもないのに」
「楽しいと言っていいか分からないけど…命の勉強になる」
「それは…確かに」
「あと今日はね、この本で見たキノコや薬草も探せたらいいなって」
イルルは斜めがけのカバンから本を取り出して、ページを捲る。早朝からこの細かい文章を読めるイルルを、ソラは心底すごいなと思った。
「また迷子にならないようにね」
「迷子になったのはあの一回だけだよ!」
並んで暖をとる背中を見ながら、ノルドは弓を磨いていた。
ソラは弓矢を手に取り、マントを羽織った。凛とした横顔、鳥の巣だった髪はすっかり直されている。少し癖毛の深緑の髪は肩にかかり、青碧の瞳は生気に溢れていた。扉の外で待っているノルドとイルル、フィノの元へ向かおうとして…ソラは踵を返す。
「ソラ、早くしなさい」
「忘れ物!」
火が消えた暖炉に駆け寄ると、ソラは視線を上げて微笑む。
「おばあちゃん、天龍さま…いってきます」
ソラは、棚に飾られた写真と像に挨拶をする。それは、まるで本当にその姿が見えているかのように優しい呼びかけだった。もう姿がないものへこんなに想いを馳せされるソラを、イルルは心底すごいなと思った。
三人とフィノは森の中にひっそり立っているコテージをあとにする。背後の空は着実に明るさを増してきていた。林道を歩く途中、ソラは何度か足を止めた。視線の先には、古びた石像が横たわっており…どれも龍をかたどったものだった。
森が人を寄せ付けないような鬱蒼とした雰囲気に変わっていく。光が差し込む隙すらない緑に気圧されて、イルルは背筋を伸ばした。舗装された道はもうないが、フィノを先頭にノルドとソラは慣れた様子で進んで行く。
「イルル、大丈夫?」
「うん、平気…」
「一回少し休憩しようか」
「すみません…ありがとうございます」
少し開けた場所でちょうどよく倒れていた幹に、みんなで腰を下ろした。小鳥のさえずり声と川が流れる音がかすかに聞こえる。
イルルは深く息を吸い、自然に恵まれた空気を取り込んだ。ここは守られた安全区域とはいえ、今のご時世タタリがいつ発生するか分からない…そう思うと、体力以上に神経が尖ってしまうのだ。
タタリは、近年フォンス王国の森に巣食う害獣で、獣の怨恨が具現化したものだと言われている。
「じっちゃんのスピリットがいてくれたらなぁ」
「・・・いつの話をしているんだ」
「ノルドさんの元にも、スピリットがいたんですか?」
「そうだよ、綺麗な毛並みの黒馬だったんだって!」
「今はフィノがいるじゃないか。なぁ、フィノ」
フィノはノルドの問いかけに尻尾を振って、ひと吠えした。猟犬のフィノがいてくれるのは心強いが、やはりタタリを鎮める力を持つスピリットには敵わないとイルルは思った。
スピリットは、天龍から選ばれし者が15歳になった時、縁を結びに現れる…それがこの国の慣わしだ。そして、スピリットは使命を終えるとその人の元から去ってしまうと言われている。
「・・・お前たちも、あと3年か」
ノルドのスピリットの話は、ソラも生前の祖母からしか聞いたことがなかった。色々聞いてみたい気持ちはあるのだが…この話になると祖父の表情と口は硬くなる。今日の祖父の横顔はいつもより険しかった。
「ねぇ、イルルは何のスピリットがいい?」
「え?」
「私はね、鷹か犬がいいかなぁ。獲物見つけるのが楽になるから」
「ソラは天龍さまから選ばれそうだけど、僕は…」
「思うのは自由なんだから。イルルはどんなスピリットと縁を結びたいの?」
ソラの真っ直ぐな瞳から逃れて、イルルは目を伏せた。シャツの下にある首飾りを左手で握りながら、イルルは父の顔を頭に浮かべた。体力も剣術もない自分は期待もされていないし、相応しくないと分かってる、でも…
「思うのは、自由か…」
もし縁を結ぶことが出来たら、みんな自分を見直してくれるかも…イルルは淡い望みを抱きかけたが、兄や義母が自分を見るあの目を思い出して頭を振った。ノルドその様子を静かに見て。
「・・・縁を結ばない方が幸せなこともある」
「え?」
「ワン!ワン!」
フィノが突然背後に向かって吠え始め、ノルドとソラは咄嗟に弓を構える。数秒の緊張がとても長く感じたが、茂みから出てきたのは驚いた様子のうさぎだった。
「はぁ…大体さ、大袈裟すぎない? タタリは人を襲って食べるだとか、呪われて死ぬだとか…ただの害獣でしょ?」
ホッと胸を撫で下ろしたイルルだったが、確かにソラの言う通り最近は話に尾ひれがつきすぎている。ただ、詳細を知るのが難しいのも事実で・・・その危険性は未知数なのだ。
「前ならもっと近くで獲れたのに…今はわざわざ迂回して狩猟区域に入らなきゃいけないし」
「最近は、ここいらも油断できん…スピリットマイスターの奴らは何をしとるんだか」
ノルドは水筒をぐびっと飲むと、瞳を閉じた。ノルドが狩りを生業に出来ているのは、ある程度タタリの気配を察知できるからだった。狩人が持つ野性の勘はスピリットマイスターが使う力に似ているらしい。
スピリットマイスターは、タタリを鎮めるため鍛えられた優秀な心身のスピリット遣いで、王直属の精鋭部隊である。
「あいつらはただの事後対応しかせん…根本的解決ができんくせに、税金で酒を飲んでる腐った連中だ」
ソラや自分には優しいが、ノルドは村の住人や国の組織に当たりが強いきらいがある。その理由を他人であるイルルはもちろん聞けそうになく、ソラはいつもの調子の祖父にため息をつくのだった。
「・・・」
再び歩き始めて十数分後、フィノはぴたりと動きを止めた。木の幹に身を隠したノルドが、二人を制止させる。
視線の先には、川で水を飲む雌鹿がいた。ノルドがソラに視線を送り、ソラが背中から矢を取り出す。弓を構えるソラの横顔に、イルルは息を飲んだ。
音もなく飛んだ矢は、雌鹿の首元に命中した。鳴き声もあげず、雌鹿が川辺に倒れる音が響く。弓をしまったソラとフィノが川へ近付いて行く。
絶命した雌鹿に跪くソラ。開いたままの瞳を閉じさせると、そっと手を合わせた。
「いただきます…天龍さま」
イルルは、その様子を食い入るように見ていた。隣にいたノルドも、雌鹿に向かって手を合わせる。数秒後、それに気付いたイルルも慌てて手を合わせた。
○ 村はずれの道
「ねー、いつもより遠回りすぎない?」
「仕方ないだろう、タタリを避ける道はあれしかなかった」
ソラが狩った鹿を背負うノルド、その後ろをトボトボと歩くソラ。隣のイルルも、疲れが相まって不安な気持ちを募らせていた。
「タタリは、そのうちこの村にも来ちゃうのかな…」
振り返り、通ってきた村を見るイルル。
「大丈夫でしょ、スピリットマイスターがいるんだから」
「そうだけど…」
「それに、天龍さまが護ってくれてるって」
眩しそうに空を見上げるソラ。太陽はもう真上から傾いており、足元に影を作っている。
「ソラはさ…」
「ん?」
「どうしてそこまで、天龍さまを信じられるの?」
「・・・え?」
足を止めたイルルに、数秒遅れてソラは振り返った。
「タタリの森はどんどん広がってるのに、スピリットマイスターは年々減ってるんだよ…スピリットと縁が切れた人も多くなってて」
ノルドも足を止めた二人に気付き、振り返る。イルルはノルドから目を逸らして、拳を握った。
「時々思っちゃうんだ…天龍さまは、僕たちを見捨てたんじゃないかって」
「・・・」
「そもそも、天龍さまなんて…いないのかもしれない」
対峙する二人の間を、風が吹き抜ける。ソラはイルルから視線を切り、空を見上げた。
「そうだね」
「・・・え?」
「イルルの言う通りかも。天龍さまがここにいたら、タタリなんて一瞬で全部鎮められるだろうし?」
「・・・」
「でも…いなかったことにされるのは、天龍さまも悲しいと思うんだよね」
ソラの目に映る光に、イルルは自分が恥ずかしくなって唇を噛んだ。
「私は信じていたい、たとえ最後の一人になったとしても」
途端、強い風が吹いてソラのマントがはためいた。思わず腕で顔をガードする二人。風が止むのを待ってイルルは目を開けると、周りに異変はないようだが・・・ソラの深緑色の髪に、白い何かが付いていた。
「イルル、なんか付いてるよ」
「ソラこそ…」
ソラが近付いてきて、イルルの銀髪についたそれを摘むと…それは、小さな淡いピンク色の花びらだった。
マントにもついてたようで、動いた拍子で数枚がひらひらと舞って地面に落ちていく。
「何の花だろう?」
「さぁ…小さいハートみたいな形で可愛いね」
「ソラが見たことない花って珍しいよ」
「イルルこそ本の虫なのに…図鑑に載ってなかった?」
「うーん、今まで読んだ本にはなかった気がする」
「おーい、何してるんだ」
二人で掌に花びらを集めて見ていると、先を歩いていたノルドとフィノが戻ってきた。
「じっちゃん、これ何の花かな?」
「ん?」
ソラは花びらを一枚摘み、ノルドの掌に乗せた。
「さっきの風で飛んできたみたいなの、見てこんなに…」
ソラが掌に集めた花びらを見せようとすると、ノルドは背負っていた鹿をドサリと落とした。花びらを乗せたノルドの手は震え、見つめる瞳はゆらゆらと揺れている。
「じっちゃん…?」
ソラの呼びかけに、ノルドは拳を握りクシャリと花びらを潰した。そのまま地面に転がった鹿を拾おうとしゃがみ込む。その身体の下にも花びらが数枚落ちていることに気付き、ノルドは目を逸らした。
「・・・この花は、見た者の心を狂わせる」
「え…?」
鹿を抱き上げて背負い直したノルドは、純粋無垢なソラとイルルの視線と向き合った。
「この花の事は忘れるんだ。決して、探してはいけない…いいね?」
有無を言わさないノルドの視線に、頷くソラとイルル。歩いていくその背中はいつもの威厳が消え、ずっと小さくか弱く見えて…ソラは思わず俯く。
フィノが地面のにおいを嗅いでいる。地面に落ちた花びらが、鹿の血で赤く染まっていた。
◯ ソラの家の前
三人が森小屋に着くと、イルルの叔父クローが立っていた。狩人でもないイルルが一人で村へ帰るのは危ないので、いつも迎えに来るのだが…まだ昼ご飯も食べていないのに、こんな早いお迎えは珍しいなとソラは思った。
「今日もイルルがお世話になりました」
「良かったら村までの道中、うちの猟犬をお貸しましょうか」
「いえ、ご心配なく…イルル、行こう」
「またね、ソラ」
「うん、また。気を付けてね」
ノルドとソラに見送られて、イルルはクローと歩き出す。
「今日は、月に一度の食事会です…イルル様」
「うん、分かってる」
ソラの家が見えなくなった林道に、馬車が止められていた。繋がれた茶色の馬は特殊な力を纏っている…クローのスピリットだ。
“イルル王子、待ちくたびれましたよ“
「ごめんね。じゃあ、帰ろうか・・・王宮に」
イルルは馬を一撫ですると、クローが開けた馬車に乗り込んだ。クローは荷台に積んであった箱から黒のジャケットを取り出し、古びれたシャツの上に羽織る。イルルの叔父という設定はもうおしまい…ここからは執事の顔だ。
「クロー、この花を知ってるね?」
イルルは、掌に乗せた薄いピンクの花びらを見せる。クローは黙ったままだ。やはり箝口令がしかれているようだ…イルルは花びらをハンカチで包んで、クローを見る。
「口に出せないのは分かってる。だから、食事会の合間にやって欲しいことがあるんだ」
「なんでしょうか」
「この花について、書かれた本を…父上の書斎も含めて、探して欲しい」
「・・・」
「僕に頼まれたと言って、植物の本とかと一緒に持ってきて欲しいんだ」
イルルはかつてないほど知識欲に溢れていた。この花について今知らなければいけないと、気が治らないのだ。イルルの圧に負けてクローは頷く。
憂鬱な帰り道に楽しみが一つ出来て、イルルはやっと背もたれに背をつけた。馬車の窓から外を見ると、雨が降り出していた。
◯ 王宮の廊下
「兄さん!久しぶ…」
「軽々と話しかけるなと言ったはずだ」
腹違いの兄、シャルルの冷たい視線はいつだって変わらずイルルの心を刺してくる。
「お前は相変わらず、みすぼらしいな」
「・・・」
「父上もなぜお前なんかを食事会に…」
イルルから目を背けたシャルルは、庭園を見やる。激しい雨が庭園の中心にある、巨大な龍の像に打ち付けていた。
「言っても、結縁式まであと1ヶ月もないのか」
「もう…そんな時期なんだね」
結縁式とは、スピリットと縁を結ぶ儀式である。毎年春に行われ、今年15歳になったシャルルは目前に迫っていた。
「俺が龍と縁を結んだら、お前なんて用済みだ」
「・・・そうだろうね」
「じゃ、最後の晩餐と城生活を楽しめよ。第二王子のイルル様」
機嫌が良く食堂へ入っていく兄、第一王子シャルル。その背中を睨んで、イルルは拳を握りしめた。
◯ 村はずれの井戸
ソラは、イルルが持ってきた本を見て目を輝かせていた。それは、まるで夢の世界のようなイラストだった。
見開きで描かれたそのページには、水色の泉を取り囲むようなピンクの花びらの木々たち。泉の中心には、天龍さまの神殿がそびえ立っている。
イルルはソラの横顔を見て、さらに胸を高鳴らせた。
「あの花…" サクラ "って言うの?」
「うん。一輪じゃない、この花が木にたーくさん咲いてるんだ!」
「たくさん…」
「一つの木だけでも10万個だよ?」
「じゅ、10万!?」
ソラは想像がつかず、頭がパンクしそうになった。イルルは楽しそうに、ページを捲る。空に舞う花びら、地面に落ちた花びら…どのイラストも美しくて、ソラは釘付けになる。
「花が散る様子は、まるで吹雪のようで…地面に落ちた花びらの絨毯も美しい」
「・・・」
「特に、この泉の水面に浮かぶ桜の花びらと、月光の組み合わせは…何にも代え難い景色である」
イラストに添えられた文字を読み上げるイルルの声を聞きながら、ソラは目を閉じて想像した。頭で描くだけでもこんなに心が踊るのに、生で見ることが出来たらどれだけ・・・
「でもね、桜が咲いているのは…1年のうち、10日だけなんだ」
「え?」
「この世で最も綺麗で、儚い花…それが桜なんだって」
イルルの青い瞳はゆらゆらと揺れて、水面のようだった。
「この本に書いてある日付通りだともう…あと3日しかない」
「・・・明日」
「え?」
「じっちゃんは…一つ離れた村の市場に行くはずだ」
本を閉じたソラが立ち上がって、イルルを見る。
「イルル、明日…桜を見に行こう」
◯ 林道
ノルドが出掛けてすぐ、ソラとイルルは森小屋を出た。フィノが家の中で吠えているのが林道まで聞こえてくる。
「本当にフィノは連れて行かなくていいの?」
「フィノを連れて行ったら、森に入ったってバレるでしょ」
「そうだけど…」
ただでさえ未知の森に入るというのに、自分たちが身に付けているのは弓矢と肉をおろす用のナイフしかない。
「フィノがいたってタタリの前では無意味なんだから…タタリの気配なら私も大体分かるし、避けて行けば大丈夫だよ」
桜を見たい一心で来てしまったが、イルルはソラほどの根性を持ち合わせていない。物音がする度にビクついてしまい、引き返した方がいいんじゃないかと思ってしまう。ソラはそんなイルルに構わず、ひとまず高いところから桜を探そうと丘を目指して歩く。
「どうしてノルドさんは、あんなに桜を探すなって言ったんだろう」
「立入禁止区域の森に咲いてるからでしょ」
イルルは、桜の花びらを見たノルドやクローが表情に影を落としているのも気になっていた。この本ではこんなに綺麗に描かれているのに…美しすぎて心を狂わされるから、存在を秘密にされているのだろうか。
ソラの気配察知のおかげで、熊などの危ない動物にも会わずに進んでいく。立入禁止区域でも見た目や雰囲気はいつも入っている森と変わらない。緩やかな斜面を登って行くと、一気に開けた場所へ到達した。
「イルル、見て!」
先に丘の天辺に着いたソラが目を輝かせて、指を差している。その方向を見えると、東の方にピンク色の森が見えた。
「あの一帯全部が桜なんだ…」
「うん・・・その中心に、天龍さまが創った泉と神殿がある」
本のページを開いて、遠くに見えている景色と重ねる。
「あの距離なら、3時間あれば着けるはず」
「日没までに間に合う?」
「うん、急ごう」
ワオーン
その瞬間、狼のような遠吠えが響いた。
勘の良いソラは鳥肌が立った。震える手で弓を構え、背中の矢を持とうとするが上手く掴めない。その様子を見て、イルルは血の気が引いていった。
「イルル…後ろの木に登って」
「え…?」
「いいから早く!」
ソラが弓を構える中、震える手でイルルは木によじ登った。
ガルルル…
黒い狼が一匹姿を現した瞬間、ソラは急所を射った。バタリと倒れた狼の血が地面に広がっていき、その身体はぴくりともしない。感じた気配もすっかり消えている。
「タタリじゃない…?」
「うん、普通の狼だったみたい」
二人は、はあ…と同時に溜め息をついた。ソラはヘナヘナと腰が抜けてしまい、木に寄りかかると。聞き覚えのする犬の鳴き声が聞こえてきた。
「ワン!ワン!」
「え…フィノ!?」
「ソラ!イルル!」
フィノの姿が見えた瞬間、ノルドが後ろから駆け寄ってきた。
「じっちゃ…」
「この、大馬鹿者が!」
パチン…とソラは、ノルドに頬を叩かれた。
「どれだけこの森が、タタリが危険か分かっとるのか!?」
「・・・分かんないよ。じっちゃんは昔の事何も話してくれないんだから!」
「だからってイルルまで巻き込んで!」
「ノルドさん!違うんです!」
イルルは木から飛び降りて、ソラに掴み掛かろうとするノルドを制した。
「僕がこの本を…桜の本を見せたから。それで、ソラは見に行こうって…」
バッグから取り出した本をぎゅっと抱えて、イルルは呟いた。
「イルル・・・その本はどこから…」
本の背表紙に刻まれた王の紋章に、ノルドは目を張った。ソラから離れて、ノルドはイルルに近付く。
「その本、最後の方のページが破られているだろう」
「え…?」
手に取った時から、イルルは後ろの数ページがないことに気付いていた。でも、どうしてノルドさんはその事を・・・
「それは、過去に私が破り捨てたからだ」
「・・・え?」
「そこには、桜の育て方が記されていた」
さわさわと葉擦れの音が三人を包む。
「最初はなんて事ない、育て方は普通の木と同じだ。だが…じきに追肥をしなければ、桜は美しい花を咲かせない」
ノルドは目を閉じて、こう言った。
「桜の樹の下には、死体が埋まっている」
< 第1話 完>