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涙の金学順(キムハクスン Kim Hak-sun)

 金学順が、最期に収録したとして、放映された動画がある。全編に亘り、肉声の証言をナレーションで包みこみ、被害者金学順という心情的に可哀想な助けねば成らなかった故人として仕上げた動画作品である。
 皆様に視聴いただきたい箇所は、4:37からの、彼女の肉声である。彼女のこの時の証言が、「日本軍に…」と言うことが基底にあるのは当然なことなのだが、何か可怪しい。
 何かと言うと、涙を流し悔しがったのは、日本軍にではなく、父親に対してだったのです。韓国の意図的シナリオで作成した番組の動画です。抜かりは在りませんが、自分には状況が飲み込めない。

動画:故キム・ハクスン(金学順)さんの最後の証言

 製作者の意図を無視するわけにも参りませんので、ここの部分の彼女の証言前には、他の自称慰安婦のお祖母様方と共に、例の定期水曜集会で「日本軍に強制連行された」との記録映像が流され、「日本軍に強制連行された」前提で、
そのナレーションの後に開始します。完璧です。
そして、彼女の最期と成った新たな証言も「日本軍」前提のものでした。

そして、この「涙の証言」の後に、ナレーションは続けて

「16歳の少女は日本軍が運営する慰安所であらゆる陵辱を受けた」
「あの忌まわしい記憶の所為でハルモニは一生苦しんで来た」


と続いて行くのです。心情を重視する韓国人が考えることを許しません。その面だけで言えば将に完璧なのです。

そして証言の切取りをつなげます。
「若い時には出られなかった。恥ずかしいことだと思ったから」

若い時には出られなかった。恥ずかしいことだと思ったから
「先ずは恥ずかしいと」
今は歳をとったからも恥ずかしいことはない」
もう大丈夫乗り越えたから
「恥ずかしいことはない。もう大丈夫乗り越えたから」

 これで、今の韓国人は、「そうだよね。それだけ苦しんだんだね」となるプログラムです。ここで、疑念を持つと、そう思うと口走っると、集団で責められますし、人で無いとの烙印を押される仕組みです。
 こうやって、韓国人の歴史はメディアのシナリオ通りの感情移入で、形成されて行くのです。主観脳の領域で固められて行ったのです。でも、そこは番組の目的通りに、証言の切り取りも能くなされてはいます。そうではありますが、彼女の本心と、彼女が、半島に戻ってから受けた仕打ちも、証言として遺しています。

でも若いときには
他人から見て恥ずかしいことだと思って

恥ずかしいことでしょ

人並みに暮らすことも出来ず
日本軍に連れていかれて
「慰安婦」にされたことは
普通のことではないでしょ
それを知ったなら、
上の方で(対応を)してくれれば良かったのに

逆に帰って来た人を卑しいと考え
相手にしてくれないし
価値のない人間扱いされて
昼夜問わず泣くしかなかった
声を殺して涙を流した
話すところが無かったから
私達が生きて来た世の中が
そうだったの

今はもう何も考えない
ただ、何が何でも復讐
日本から申し訳なかったと
言われること
願いはそれだけ、他にはない

 このくだりでも、彼女が日本をターゲットにしていると聴こえる限り、今の韓国人は、主観脳前回で反日熱をたぎらせるので、この切取り編集で充分だったのでしょう。
 でも、これが事実としても

① 「若いときには他人から見て恥ずかしいことだて思って」と、
今尚、確認するかの様に「恥ずかしいことでしょ」と問い掛け確認しています。これは何故なのでしょうか?
更に
②「逆に帰って来た人を卑しいと考え、相手にしてくれないし、価値のない人間扱いされて昼夜問わず泣くしかなかった。声を殺して涙を流した。話すところが無かったから。」
③「私達が生きて来た世の中がそうだったの」 

こう続くのです。
 今の韓国人にはここ迄で反日熱をたぎらせるので主観脳で脳内活動がループ状態に入っているので、殆どの方々が気付かないのでしょう。でも、②は、狭く言えば、政府への不満です。でも、広く言えば韓国人社会と家族親戚も含む、当時の彼女への告発です。それを彼女は訴えているのです。
 そして、③に至っては、「韓国人社会」がそういうところだった。と明言しているのです。ここは、完璧な韓国人社会への苦情ですよね。
 彼女のこの言葉が、後世の生き方で植え付けられたことでない前提でも、この証言が得られたのです。

「私達が生きて来た世の中がそうだったの」

 この言葉はとても重いものです。そして、次の日本へ要求が続くのです。
「今はもう何も考えない。ただ、何が何でも復讐。日本から申し訳なかったと言われること。願いはそれだけ、他にはない。」で締めくくられるのです。
 彼女は、自称人権活動家で取り囲まれていました。情報は常に、その連中のフィルターを通して伝えられました。
 日本は、ことある毎に、「お詫びの言葉」を発信し続けていました。そして、「強制連行」の事実確認が出来ない中、その可能性を全面否定するとこなく、申し出た人には、その申告の真偽を斟酌することなく、財団設立でお金も支払いました。それも総理大臣の手紙を添えて。
 日本は、彼女のこの言葉の行為を何度もしていました。これが事実です。それが彼女の耳に、そして心に届かなかったか、遺らなかった。または、打ち消されから、起きた事態だと私は思います。可哀想なことをしたものです。
 この方かどうかは判りませんが、後に、日本側の対応を聴いた女性は、「自称人権活動家からは、聴かされなかった」と話しています。心を癒やす機会を阻害されたのです。そして、今の活動をエンドレスで続けた輩が、ぐるに成ってかき回してきたのが、韓国人社会だったのです。
 そして今、その団体の一つ「日本軍性奴隷制解決のための正義記憶連帯」は、「私たちは真実の謝罪を求めます」との趣旨のプラカードを掲げ、合せて、賠償要求を集会で上げているのです。
 つまり、彼等は、彼女達の経済的扶助や心の安定に主眼は無いのです。在るのは、活動継続です。それで、韓国社会に30年間築き上げて来た金の流れを、延々と続けて行きたかっただけなのです。活動は、それが中心で、彼女達は只の道具だったからです。

私達が生きて来た世の中がそうだったの

だから、歳を重ね、それ迄の蓄えも食い潰してしまったときに、天使の笑顔で近寄った詐欺師の言葉に乗り、それを新たな抱え主として生きる道を選択したのです。
 言われるままに、公然で証言する生業で、日々餓えずに生き延びる道を選んだのです。この余生を過ごすために囲われた、包主が尹美香でした。ナヌムの家の理事長でした。


金学順(キム・ハクスン)さんの略歴

彼女に限らず、証言を全て網羅すると経歴が複数分岐してしまうことになるので、ここは、「1993年の韓国挺身隊問題対策協議会の調査による」経歴をここに紹介しておく。出典は日本語版Wikipediaである、真偽の程は判らないが、他に反論するだけのものも無いでしょう。

1993年韓国挺身隊問題対策協議会調査による略歴

・1924年:中国の吉林省(当時の満州)に生まれる。生後すぐに父が死没。
・1926年(2歳):母と共に平壌(現在の北朝鮮)へ移住 。
・1935年(11歳):母子家庭で貧困のため小学校を中退。
・1938年(14歳):母が再婚、継父とは不仲。
・1939年(15歳):40円で売られて妓生巻番の養女になり、そこから妓生を養成する学校(妓生養成学校)に通う。
・1941年(17歳):卒業するが年齢が足りず妓生になれず、養父に中国ならお金が稼げるだろうと、養父に連れられ平壌から中国へ汽車で行く。北京に到着町中で日本軍将校に呼び止められ「朝鮮人だろ、スパイではないか?」と姉さんとトラックに乗せられる。夜中ついた空き家で将校に犯される。翌日、お姉さん共々慰安所に。場所はテッペキチン(鉄壁鎮?)村の中の慰安所で女は朝鮮人5人で経営者はいないが歩哨が隣の部屋にいる。
ただし、前述の1991年の韓国遺族会裁判の訴状[2]では北京で軍人に拉致されたのではなく、鉄壁鎮まで養父に連れて行かれ、養父とはそこで別れたと異なる証言をしている。「軍人達は自分たちでサックを持ってきました。1週間に1回後方で軍医が兵士を連れてきて検査をしましたが軍医が忙しいと来ない週もありました。軍医が来て少しでも異常があれば黄色く光る606号の注射を打たれるのです。」「私たちのところに来る軍人は部隊の許可を得ているようでした。始めは軍人達が金を出しているのかどうかまったく分からなかったのですが、しばらくしてシズエから兵士達は1円50銭、将校達が泊まりの時は8円出さねばならないのだという話を聞いたことがあります。けれど私は慰安婦生活の間中軍人達からお金を受け取ったことはありません。」(2ヶ月後)近傍のより前線に近い慰安所に移動。(1ヶ月後)歩哨の目を盗んできた朝鮮人の男が寝に来る、無理に頼んで夜中に脱出。男と中国で暮らす。
・1942年(18歳):妊娠を機会に上海のフランス租界に定住
・1943年(19歳):出産
・1945年(21歳):2人目を出産、松井洋行という質屋を経営1946年6月:上海から船で韓国に帰る。

私的解釈

 既に故人なので、個人的に過去を暴くことはしたくない。故にさらりと私見を述べたい。彼女が基本的に対象者ではないことが論理上形式的にも言えるので、それで充分かとも思います。深く掘り下げ晒すべきではないと思います。自分の両親も彼女と同じ戦中戦後が青春だった世代でした。その世代の皆様には、安らかな余生を衝突お過ごし頂き、ご逝去後は心安らかにお眠り頂きたい。そう言う思いです。彼女には、あの世で、彼女の信じる神のご加護ありますことをお祈り致します。それて詐欺師のビジネスとは別問題です、そちらは、徹底的に追求し明確な措置を願います。

  1. 「平坦地の慰安所」ではない
     つまり「軍直轄の慰安所」ではない。従って、慰安婦ではない

  2. 3ヶ月で逃亡したので里に身を寄せることは出来なかったかと
     彼女は勤務先を抜ける為に男に頼り、上海で夫婦生活をしている。これは、逃げることがどんな類を及ぼすかは理解していたから、故郷には戻れなかったからだと思われます。個人的にはそのままの人生が上海で続けることが出来るなら良かったですね。

  3. 継父との仲が悪かった「継父への恨み節」との関係
     継父の実母との関係が、元から、娘の売買で金を造る目的だったものと考えます。彼女は3ヶ月で逃げましたから、養父、継父、実母の何れかに、その類が及ぶことは認知していたかと。それが尚更、就いた仕事が売春稼業だったことで許せなかったのではないでしょうか?

  4. 妓生学校に通っている
     妓生は、法令では「芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則」に基づき許可の上行なう稼業をする女性を言う。芸妓に含む形で許可と取締が行われ保護されてていてた。
     妓生稼業自体には法令上「年齢制限」自体が無い。だから、営業許可が降りなかったのは、「娼妓貸座敷取締規則」に合致しなかった時に起こることだ。「妓生券番の養女」と成っているので、養父はその関係のプロで、違法な人身売買に関わっていたものと考えられます。
     憶測ながら、養女にした段階から「妓生学校修業」の履歴を付け、販売する目的だったのだと思います。
     誠に、哀れな女性の身の上であったと自分は思います

  5. 妓生見番の養女として売られた
     そうならば、既にことときに親から将来を決められていた。

  6. 養父に連れられ「鉄壁鎭?」
     慰安所の所在地として証言される「鉄壁鎭」は満州と推定されている。満州、台湾、内地に兵站地は存在しないので「慰安所」ではない。だから、慰安婦ではなく、民間の売春宿勤務の売春婦に過ぎない。李容洙(イ・ヨンス)の台湾新竹の勤務と同様で、これを含めるならば、売春宿勤務の民間人相手の売春婦全員が「慰安婦」と成ってしまう。

  7. 日本軍証言には無理が在る
     後世の証言は悉く、「強制連行になり、それが恥ずかしいこと」との本人証言になるが、妓生券番の養女になり妓生学校に通っている。既に、少なくとも将来の進路は、養父により定められていた。暇を持て余した日本軍や官憲により強制連行が必要な生活基盤に、彼女は居なかった。彼女の境遇には同情を禁じ得ないが、だからといって、嘘はいけない。詐欺への加担は許せることではない。

  8. 証言内の「継父と独立軍と関係」故に日本軍に、との物語
     かなりの無理筋、そのものである。もしも、半島に独立軍が居たとしたら、これは世紀の発見である。

当時の関係法令


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