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読書メモ|つみびと_山田 詠美

ふと、思い出した。小学校の高学年から中学にかけても、自分は同じようなことに追われていた。いや、むしろ、幼い分だけ、やり方がわからなくて迷い、しかも猫の世話もあったから、もっとずっと大変だった。けれども必死になってやった。つたないなりに、がんばった。弟妹の面倒も、家事も、力尽きて倒れ込んでしまうまでやった。私がやらなくてはどうにもならない。

(略)それなのに、なぜだろう。今、大人になった自分が、あの頃と同じには動けない。(略)無理にやろうとすると倦怠感が襲ってきてこう思う。
「あー、やってらんない。もう、ほんとやだ」(略)
「私すごく疲れてる」
蓮音はそうひとりごつが、彼女が心から休める場所がどこにもない。
本来なら子供たちと一緒に和むはずの場所はゴミだらけだ。

第3章

ひたすら下手にでていたら、彼はこういったのだ。
「おまえに似ちまったんだな、蓮音は。いや、似たなんてもんじゃない。血筋かもな。おまえも虐待受けてきたわけだし。でも、まさか、おれの血をわけた娘でもあんのに、あんなふうに育って、取り返しのつかない事件を起こしてくれるとは」
私のうちに反論できないもどかしさがくすぶり始めた。やがて、それが怒りに火を点けるのを私はよく知っている。
「・・・隆さん、変わってないんだね」
「それ嫌味か」
「ううん。相変わらず、ぶれてないんだなあって思ってさ」
「よく言われるよ。少年野球チームなんか率いるには、そこ重要だしな。子供たちにはいい加減な態度でいるのは許されないからね」
この人のこういうところが耐えられなかったんだ、と私は今更ながらに思った。
「野球チームの子達の前に、自分の子供たち、なんじゃないの?」(略)「・・・蓮音は?」
「あいつは、お前の子だ。お前が産んで、お前のように育って、お前のようなダメ女として人生終わった」

私も、娘の蓮音も、自分の子を捨てた。事実だけを取り上げれば、同じ残酷で非道な行いに思われる。でも、私は後先を考えずに逃げ出したから、子供たちを死なせずにすんだ。そして、すべてを引き受けてきた蓮音の子供たちは死んでしまった。馬鹿な娘だ、と他人事のように蓮音を思った。わたしみたいに逃げ出せばよかったのに。

いつだったか頼子さんに母はこう言われたことがあると洩らした。私はねえ、頼ちゃんと違って男の人に頼ってないと生きている気がしないのよ、と。

固まったようになった桃太をみて、はっと我に帰った様子の母は、小さな声で「ごめん」と言いました。「私、何やってんだ・・・ほんと、何やってんだよ、もう!でも、もうどうにもならない・・・もう、どうにもなんないんだよ・・・」

泣いて眠りにつき、泣いて目をさます。そうする自由が少なくとも与えられているのだ、と少しだけ感謝してみる。

女を紹介する際に父は言った。
「父子家庭が可哀想過ぎるなんていうんだ。パパの大変な苦労を解ってくれる優しいひとだ」
この男、駄目だ・・・蓮音は父に対して初めてそう感じた。

その女は最後に泣きながら父に言った。
「あなた、自分以外のみんなを馬鹿にしてる。自分だけが正しいと思い込んでる。前の奥さんが我慢できないで出ていったの、あなたにだって原因あるのよ」
父は憮然とした表情のまま「ないよ」と、ひとこと言っただけだった。

第4章

あの頃より断然楽じゃないか、と蓮音は思った。母の琴音が留守がちになり、ついには家を出ていってしまった頃のことである。まだ、幼いのに、さらに幼い弟と妹の面倒に追われたあれらの日々、助けを求めようにも誰もそばにいなかった。いや、本当はいたのだ。しかし、父をはじめとするその人たちは、蓮音が、差し伸べてくれる手を必要としているのに気付こうともしなかった。

第6章

夫に当たるなんて、もってのほかだ。
私の人生を引き受けてくれたあんなりっぱな男の人に。
捨てられたら、たちまち路頭に迷う。(略)
もちろん夫の隆史も子供たちも、わたしがいつもの機嫌のよい「お母さん」でなくなりつつあることに勘づいた。(略)
しかし、時々、心底うんざりしたように、こんな言葉を投げつけた。
「頭のおかしいお前の相手するの、ボランティアより大変だな」

言われた数日後、私は精神科病院に入院した。

音吉とは、養育費の支払いについて何度か会って話あった。
そして義母がこう言っているのを知った。
「うちの孫でもあるんだから、そりゃ、心は痛むのよ。でもね、あの蓮音ちゃんの血を引いていると思うとねえ・・・それって、あのお母さんから続いている血ってことでしょ?うちで引き取る訳にはいかないよねえ」(略)「・・・血・・・」(略)
「新しいお嫁さんみっけて、新しい子を作んなよ。今度は綺麗な血を子をね」

けれど、耳を傾けてくれる彼らの誰一人として救いの手を差し出す者はなかった
結局(略)母子は放り出された形になった。
すがりつくという選択肢がなぜ自分にはなかったのか。のちに考えても考えても蓮音にはわからない。(略)頼ろうとしなければ、断れて傷つくこともない。呪文を唱えて必死になった。がんばるもん、わたし、がんばるもん。

第8章

蓮音は、皆に見放された後、誰かにすがりつくこともせず、助けも求めなかった。子供たちの父親からも養育費を受け取らないままだったと聞いた。頼まれれば、すぐに渡せる状態だったのにと、週刊誌の取材に応じたその親族は語っていた。自分の親に申し出ることもなかった。私はもちろんのこと、父の隆史にも。(略)あのヒューマニズムを標榜するごりっぱな男なら何らかの手を打っただろうに。でも、誰も、あの母子のために何もせず、そして、蓮音自身何も求めなかったのだ。そして、子供らを置き去りにして死なせてしまった。(略)
本当はどれほど助けて欲しいと口にしたかっただろう。
娘が母親に頼るという当たり前のことすらできずに蓮音は去っていったのだ。
あんたには元々、なにも期待してないよ、とひとこと残して。

私は兄によって落ち着かされ、癒されていった。(略)
兄との数年間の生活で、私は穏やかさというものを学んでいった。(略)
「私信頼して話せる友達とかいたことなかったから、佐和さん(兄の嫁)と仲良くなれていい気になってたかも・・・」
私の卑屈な物言いを聞いて、佐和さんは大声で笑った。
「うっとおしくない人間なんて、この世にいないのよ、琴音ちゃん」
「そうなの?」
「そう!でもね、いいこと教えてあげる。そのうっとおしさがなくなったら寂しいって感じられるひとを身内って呼ぶの。琴音ちゃん、あんたはもうわたしの身内だよ」

しかし、子連れの寮に入り、ランクの低いキャバクラで働き始めて、すぐに自分の甘さを思い知らされ、愕然とした。ランクの低い場所にはランクの低い男しか集まらないのだ。ましてや自分に愛を与えてくれる男なんて。

「借金を抱えた子、子供を抱えた子、夢を抱えた子、真面目に割り切って働くのは、この3つを抱えた女の子たちなんだよね。贅沢したい、とか男にいい顔したいとかは続かないよ」

「うーん。でも贅沢いってらんないしね。」
という蓮音に、ふたりとも同意して頷く。
やっぱ子供第一だもんね
「それ考えると、イソジンの量を増やしてうがいしながらがんばるしかないね」
「ねえ、うちらってさ、こんだけがんばって子供ら育ててさ、少子化対策に協力してやってんのに、なんで、テーヘンやってんの?
3人のぼやきはまだまだ続く。

第9章

蓮音が一緒に働いていた同僚の女の子たちに会えないかと尋ねたら、森山は憮然として言ったのだった。
「あの子たちが、いったい、どういう世界に身を置いていたかご存じないんですか?あなた無知すぎるよ。いいですか?彼女たちの過去も未来も、彼女たちだけのものなんです。他の人間が関われるのは、その時に現在と呼ぶことのできるほんの一瞬だけなんだ。」
そして憐れむように森山は続けた。
「お母さん、あなたはルルちゃんの人生をたどって自分探しをしてはならないんです」

「琴音、見返りを求めるんなら行くなよ」

蓮音の事件が大々的に報道されて、その悲惨な全容が明らかになった時、佐和は号泣して崩れ落ちたという。彼女は息子を幼い時期に亡くしている。「だったら、私にくれよお、くれーっ、って叫んで泣き喚くんだよ。たまんなかった」兄の悲痛な顔が今でも思う浮かぶ。

エピローグ

「あんのこと」にも「どうすればよかったか」にも通じるものを感じました。
投げ出す人と、負う人。
最近よく考えるのは、子供たちの父親や自分の両親が、なぜ少しくらい支えてくれなかったのかということ。
専業主婦として8年間、3人の子供を育てることだけをしてきた自分が、いきなり一人でやっていけると思っていたのか。
当時の自分や周りの状況を振り返ると、複雑な思いが込み上げてきます。
「つみびと」は、そんな忘れかけていた感情を掘り起こし、問い直させる力を持った作品でした。

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