日常の中にある現実という名の奇跡
mirariです。
今日は次男と塾のオリエンテーションに行く予定があったので、仕事を定時ぴったりに上がって、自転車で10分で帰宅。そこからまた塾まで5分。1時間半ほどのオリエンテーションを終えて帰宅し、作りおいておいたカレーを温めてご飯にかけて夕飯。ご飯の後片付けは夫にお任せして、つかの間のコーヒータイムとお風呂、合間の時間に子供たちの話を聴いたり、長男の塾の日報を読んだり返事を書いたり。そして就寝前の今、これを書いております。
一人の時間がないとやってらんない、と、ほんの数年前まで好き勝手にやっていたのだけれど、今思い返してみると、自分をまっすぐに見て向き合って、本当に大切にしたいものから目を背けていたんだなと思います。
とても大切だからこそ、引き受けるには荷が重すぎるとどこかで思っていたのかもしれない。その荷の重さというのは、犠牲、という名前だったかもしれません。
引き受けたら犠牲を払うもの。
引き受けるには犠牲なしには成り立たない。
そう思っていたから、見て見ぬふりして先延ばしにしてきちゃいました。
でもね、私思うんですよ。
本当に大切なものは、ちゃんと大切にできる日が来る。そう肚をくくれる日が来るんです。そうなったらもう、自分の時間があろうがなかろうが、できることをやるしかないし、できるように考えるしかない。
それでいいんじゃないかな。
もっと早く気付いていたら、もっと早くやっていたら、って考え始めればきりがないけれど、私はそれを考えているとどんどん暗くなっていっちゃう。
お母さんはね、太陽だから。お母さんはみんな、家族のエネルギー源だから。だからお母さんがご機嫌であることが、何より一番大事という結論に達したんですよね、私。
だから、私自身がご機嫌に過ごすにはどうしたらいいかということだけを考えたらいい。そのために好き勝手にして過ごしたりしていたこともあるけれど、大事なものから目を背けている限り、100%のご機嫌ではいられないんですよね。どこかで仮面かぶっているというか、ごまかしているから。
だから今、毎日があっという間に過ぎていくけれど、どの瞬間も楽しいし感謝だし、あぁ豊かだなぁ、と少し上の視点から眺めている自分も好きです。
もっとこうなりたい、もっとこうしたいと思い描くことも楽しいし大事だけれど、同じくらい今目の前に見えている現実という光景がどれほど奇跡に満ちているかに気付いていることも、とてもとても楽しくて大事。
その感覚を身体全体で味わって、受け取って、満たされていくこと。日々の中にそんな瞬間が存在している「今」がとても愛おしいです。