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頭の中の様子を考える話。

 最近、頭の中がどうなっているかという話を友人とした。それからと言うもの、そのことについて思考がぐるぐると回る。回りすぎてドバドバと溢れそうなのでnoteにまとめてみることにした。

ことの始まりは言語化力

 私は言語化に時間がかかるタイプだと自覚がある。自分の考えが言葉として出てくるのに時間がかかるため、普段の会話の中でとっさに出てくるのは当たり障りのない無思考の言葉たちだ。帰り道で自転車を漕いでいるときや家でシャワーを浴びているとき、ふと自分の気持ちがまとまる瞬間がこれまで何度もあった。しかしその言葉は誰にも伝えられれことはなく、私の脳内に溶けてゆく。言葉にできた喜びと吐き出す場がない喪失感はなんとももどかしいものだった。
 友人は言語化が上手でよく喋る人だったので、どうしてそんなにすぐ意見が出てくるのか尋ねた。すると、「いつも頭の中でおしゃべりしているから」という答えが返ってきた。

ビジュアルシンカーと言語思考者

 この世界には物事をビジュアルで考える人と言語で考える人がいるらしい。私は自分が前者だと思う。考えているとき浮かぶのは、いつもぼやけた映像だ。色々な映像が出てきては消えまた違う映像が出てきて、パカパカと移り変わる。おそらく自分の想像力のキャパを超えると映像はフェードアウトして行っていく。また妄想癖が故かは分からないが、その内容はややぶっ飛んでいたり非現実的であることが多い。例えるならば夢を見るように考えているのだと思う。
だから考えたことを伝えるとき、その夢のどこを切り取って説明すればいいか分からないし、その様子をどう表現したら良いのかいつも戸惑う。(語彙力がない話は一旦放置する)また、夢なんてすぐ忘れてしまう隅っこの記憶だ。その存在感には気づいていても姿が鮮明に見えなければどうしようもできない。この夢のように映像的で断片的な思考をここでは“夢思考”と名づける。

夢思考を言葉にする

 ここで、夢思考を言語として出力するプロセスを紐解く。私の頭の中には思考中の瓶と思考不要のバケツがある。
 思考中の瓶では、日々大きな粘土が捏ねられている。その粘土には、先述した夢思考と私自身の過去の記憶を最小単位の材料としている。夢思考と記憶が捏ねられることで重なったり伸びたりする。夢思考が現実性を帯びたり過去の記憶が美化されたりするのは、この捏ねる作業の仕業であるのではないか。そしてこの粘土は立体的だから、表面に出てくる部分と出てこない部分がある。私が意見を言える時はこの表面について話している。
 思考不要のバケツでは、これまで言ったことがあることや誰かから聞いたこと、自分の中で結論がでたことが言葉として貯蓄されている。これらは、他者に伝えるための言葉でもあり、自分の思考を整理するための言葉でもある。
 人と喋っているときは思考不要のバケツの中身を主に使っている。親密度が上がると思考中の瓶の中身を頑張って言葉にする。それをできるだけたくさん思考不要のバケツに入れることができれば、私もスルスルと意見が言えるようになるだろう。しかし、それはなかなかのエネルギーを使うことなのだが。

中学時代のこと

 人生を振り返ると、中学時代の瓶はすごく小さかった。というよりかは、学校が大きな瓶に変えないよう圧をかけていた。というのも、学校の方針として団体責任や全員本気を求められたという背景が存在する。
 瓶が小さいと起こることは、ギューギューで捏ねずらいから表面があまり変わらないということだ。つまり思うことは出来ても考えることは出来ない。だから粘土はどんどん硬くなり、凝り固まった偏った言葉しか出てこなかった。自分がいるコミュニティというのは瓶の大きさを変えてしまうことに気づいた思春期であった。

ビジュアルシンカーの術

頭の中がどうなっているか分かったからと言ってどうもこうもないのだが、少なくとも自分の意見をが言えないことに不安を感じることは減ったように思う。自分はこういうタイプなのだと属性を与えられ認められることに安心したのだ。また、こうやってnoteに書くことで、私の思考不要の言葉のストックが増えた。これでまた一つ会話が楽しくなる。
 気をつけなければならないことは、思考不要のバケツ内の言葉を時々思考中の瓶の中に入れてあげることだ。バケツにはいつだってNowな私の言葉を入れておきたい。思考不要のバケツと思考中の瓶、それらの循環を作る。それはビジュアルシンカーにとって言語化が重要視される現代を生き延びる術であるのではないか。


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