日本学術会議への人事介入は何が問題か
日本学術会議が推薦した会員候補のうち6人が、理由等の説明のないまま菅義偉首相によって任命を拒否された。この人事介入問題には、わずか一週間で100を超える学会から単独ないし共同の声明が上がり、世界的な科学誌であるネイチャーやサイエンスまでが「学術的な自治」「学問の自由」といった観点から批判的に言及するに至っている。
しかしながら、自民党は「日本学術会議のあり方を議論する」として党のプロジェクトチームを立ち上げる方向に動いており、今回の人事介入を学術会議の側の問題に転嫁しようとしている。
確かに組織である以上、学術会議の側にも問題はあるのだろう。けれどそのことと人事介入そのものに関する問題は区別されるべきだ。なぜなら今回の人事介入は「①法律や手続きを踏みにじるプロセス」によって「②個人が標的」にされ、その結果として「③学問および言論の自由が脅かされている」という問題であり、いくら学術会議の体質を争点化したところで、こうした問題が許されることにはならないからだ。
それにもかかわらず、こうした事柄を混同し、「学術会議にも問題があるから今回の人事介入は仕方がないのだ」などと主張する、議論の能力に欠けていることを恥とも思わない政治家や言論人が少なくない。「学者の側に問題があるから」という主張も同じである。こうした状況を非常に憂慮することを表明しておくとして、今一度、人事介入の問題点を整理することにしよう。
第一に、法律や手続きが踏みにじられたということ。これまでの政府答弁では「任命は形式的行為である」として恣意的な運用が否定されており、「推薦に基づき全員を任命する」との政府資料が存在することも明らかにされている。今回の人事介入は行政が法解釈をねじ曲げ、手続きを棄損したという点で、重大というほかない。この点について京都弁護士会は、格調高い文章をもって、違法であるとともに違憲であると断じている。
第二に、個人が標的にされたということ。理由の説明もなく特定の学者6人が排除されたということは、正当な根拠なく個人が標的にされたということであり、行政のふるまいとして論外というほかない。言語道断であり、いかなる立場であろうと批判に値する問題であろう。今回のことを容認すれば、誰もが次の標的になりうるのだ。
第三に、学問および言論の自由が脅かされるということ。これは、今回のことが何を招きうるかという問題にあたる。学者や学問というと、この社会の限られた一部分であるように思えるかもしれない。しかし政権にとって都合の良い学者を任命し、都合の悪い学者を任命しないということが起こるならば、政府が採用する意見が恣意的なものとなりうる。そして「何が正しいのか」「どうあるべきか」「なにが目指されるのか」といった価値判断に政府が公然と介入することを許すなら、学者だけでなく一般市民の言論も脅かされることにもなりかねない。
以上の三点は今回の人事介入という行為そのものに関する問題としてある。繰り返すが、いくら「学術会議のあり方」を云々したところで、今回の人事介入を正当化することには一切ならないのだ。
2020.10.11 三春充希
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