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戦後の金融体制を知る②ペトロダラーからプラザ合意まで

【ペトロダラーシステムの構造】

1973年、当時のリチャード・ニクソン政権はサウジアラビアのファハド・ビン・アブドルアジズ王子(のち国王)との間で、米国がサウジに軍事支援や兵器を提供するのと引き換えに、原油取引をドル建てで行うことに合意しました。他の産油国もこれに倣い、それ以来、原油の国際取引は米ドルで行うこととなり、これをペトロダラーと呼びました。

資源、エネルギーがない国の経済を、貿易を黒字にする加工貿易で育てた日本人の多くは「ペトロダラーシステムにおけるドルの米国還流の仕組み」までは気が付かず、ドル基軸の通貨制度を自然のものとして受け入れてきました。

しかし、それは経常収支が赤字である米国の特権的な国益の確保という目的がある人工の制度でした。

赤字の米国から海外に渡ったドルが、①Uターンして米銀に還流してくるペトロダラーの仕組みに甘んじて、②これ以降、米国は国家経済として必要な対外的な経常収支の均衡と黒字化を目指さない国になりました。

日本には、海外からのエネルギー、資源、食料の輸入のため貿易の黒字が必要でした。日本は国産の農業だけでは生きられません。

1960年代、70年代に政府は貿易をリードし、産業界は製造業を中心に懸命に働き、輸出を増加させました。その対価としてドルを集めていきました。

米国から渡されたものは、長期的には価値が下がるドル、国債、債券でした。現在、日本の所有として40年で貯まった約1300兆円の対外資産があります。その80%がドル建てでしょう。

日本は金属資源とエネルギーのほぼ100%、食糧の60%超を輸入に頼ります。米国は逆です。食糧以外は構造的な輸入大国であって、世界にドルをばらまいて食糧とエネルギー以外の商品は十分に作らず、商品は輸入し、対外負債を増やし続けました。

このため米国の対外負債は30兆ドル(4500兆円)を超え、海外が常時持つ外貨準備は、12兆ドル(1800兆円)に増えました。

米国は約40年、経常収支が構造的な赤字を続け、日本とは逆にドルが還流するペトロダラーのマネーシステムによって、対外的な借金で経済を成り立たせる構造になってしまいました。

しかし、世界の産油国が輸出の60%をBRICSが構想する新通貨で売るようになると、ペトロダラーのドル還流システムが崩れるため、まず米銀とノンバンクが破産し、次に海外が3分の1から4分の1を買っている米国債を発行している米国の政府財産も破産します。唯一の対策は、対外負債のドルの2分の1への切り下げです。

【世界の国際収支の構造】

ペトロダラーシステムから見ると、経常収支の構造は次のように説明できます。

①経常収支の黒字国は入ってきたドルで米国債券やドルを購入します。これは米国への貸し付けとなり、経常黒字国の対外資産となります。しかし、これは経常収支国にとっての金融収支の赤字です。

②経常収支が赤字の米国は、金融収支では黒字となり、海外に支払ったドルは還流してきます。これは、経常収支の黒字国からの米国の借り入れとなり、米国のドル建ての対外負債は増加します。

米国以外の経常収支の黒字国にとっては、ドル買いになり、米国の経常収支の赤字は黒字国へのドル売りの超過、つまり対外負債の増加となります。

これが、戦後の世界貿易がGDPの増加率より大きく拡大してきた国際収支の仕組みです。黒字国のドル買いと赤字国のドル売りは均衡し、世界の国際収支はゼロになります。

18世紀まで金が国際通貨だった重商主義の時代は、経常収支の黒字国では金(または銀)が増え、赤字国では金が減っていました。国家の金が枯渇すると、輸入ができなくなりました。

金は信用通貨のように印刷ができません。このため、貿易赤字は減って、均衡に向かっていきました。金の輸入は海外から金を借りて、その後の貿易を黒字にして金を得て返済することでした。

一方、信用通貨での貿易では、その通貨が外為市場の銀行に買われる間は、貿易の赤字を続けることができます。しかし、金または金兌換で貿易していた19世紀までの近代重商主義の時代には、国家の金が枯渇すると輸入の決済ができず、輸入は減って自動的に貿易は均衡していました。

ペトロダラーシステム以降経常収支の黒字国が経常収支赤字国の米国のドルと債券を購入することで、ドルを還流し、結果として米国経済を回してきたのです。

【米国は世界のマネーを引き込み続けるブラックホール】

中国、日本、ドイツ、産油国、ASEANの5カ国、そしてエネルギーと金属資源の輸出の超過国がドルの保有を増やす、つまり米国債とドル社債、ドル株の買いを増やします。米国は対外負債30兆ドル(4500兆円)強を引き込み続けています。つまり、海外に出たドルが、米銀に還流する資金循環が成立しています。米国は巨額の経常赤字、その次に大きな経常赤字は英国ですが、この二カ国以外の主な経済大国の経常収支は黒字です。

日本の政府、金融機関、企業、個人は工場とドル証券を(国債、社債、株)を対外資産として国の合計では1479兆円(2023年第2四半期)持っています。対外資産は1009兆円あります。この大部分は米国への純貸し付けです。

ドルペッグの通貨の香港を除く中国は対外資産を7.7兆ドル、対外負債を4.9兆ドル持っています。対外純資産は2.85兆ドル(382兆円)です。

ドイツの対外純資産は389兆円相当ですが、ユーロ内が多くドル買いは多くありません。

資源、エネルギー輸出のノルウェーの対外純資産は156兆円です。

ロシアの対外純資産は102兆円(2022年末)であるが、60兆円くらいは米欧の銀行がロシアが引き出せないように凍結しています。

米国の対外純負債(対外負債-対外資産)が15兆ドルもあります。米国の対外純債務は、ほぼ米国の1年分のGDPに相当します。この純負債の大きさは返済不可能な金額にまで達しています。

日本でも仮にGDPの1年分(日本では550兆円)の対外純負債があれば、返済できません。対外純負債が返さない国は通貨が暴落します。

しかし、ドルは暴落していません。その一方で貿易は赤字になったものの、経常収支はまだ黒字の日本は、150円台の円安となりました。原因はドルの金利が日本よりも約4%も高いことにあります。

1971年からの日本、ドイツ、産油国、資源輸出国、1994年からの開放経済になった中国も、ドル基軸通貨体制を支えてきた米国のパートナーでした。

ドルの今後は、経常収支黒字国が2024年以降もドルを買い続けるかどうかにかかっています。海外からのドル買いは、中国、ロシアに見るように今後は増える方向ではありません。

今はまだ世界一低い金利の日本が平均4%くらいの金利のドル買いをしています。このドル買い、円売りは2023年の水準で1年に50兆円と、日本の経常収支の黒字の4倍も大きなものです。つまり、日米の金利差だけによる投機的で過剰なドル買い、円売りであり、逆転して急激な円高、ドル安にもなりやすいものです。日米金利差が現在の4%から3%、2%へ下がっていくと、簡単に円高、ドル安になるでしょう。

中国は脱ドルを目指していると思われ、2021年から米国の制裁的な規制で、対米輸出が増えなくなってきており、3.4兆ドルの外貨準備から少しずつドル売りに向かっています。

2022年から赤字通貨のドル買いを一手に引き受けているのは、金利が0.1%から0.9%と低い日本です。

米国は中国と日本からの借金で株価を上げて繁栄しています。日本は40年の累計で、1300兆円も米国に貸し、ドル国債を売ることなく保有して米銀の金庫にしまい込み、自国は貧乏になりながら数字だけの対外資産を1300兆円貯めこんだのです。

30兆ドル(4500兆円)の海外からの借金の増加による米国の繁栄は、いつまでも続けることはできません。膨らんだ対外負債のドルの金利が上がっている今、債務危機の話が持ち上がっても当然です。

この状況でもなお、日本人は円よりもドルの方が価値があると思っているようです。米国がドルの対外負債30兆ドルを持つ金融負債国であることは見ていません。永久に返済できない借金を自国通貨で抱えた国家が米国です。

米国に残された方法は、ドルの2分の1への切り下げしかないでしょう。第二のプラザ合意はあり得ないことではありません。

【石油危機(1973年、1980年)】

米国がペトロダラーを確立した時期の1973年10月にはパレスチナを巡り、アラブ側のエジプトとリシアがイスラエルを攻め、第四次中東戦争が起こりました。米国の仲介で1か月で停戦しましたが、エジプトはイスラエルにシナイ半島の返還を迫りました。

サウジがリーダーであるアラブ石油輸出機構(OAPEC、現在はOPEC23カ国の供給者組織になっている)は、イスラエル支援国(西側)へ石油供給の停止または制限する「石油戦略」をとったため、原油価格は、まず2ドルから8ドルと4倍に高騰しました。

これが世界を震撼させ物価を30%上げた「第一次石油危機」でした。1バーレルは6倍の16ドルに上がりました。16ドルでも今日の80ドル前後と比べれば安いです。しかし、1950年代の中東に米国が石油を発見した時は1バーレルが1ドルという安さでした。

1973年の第一次石油危機の時、米国と欧州の石油の7大メジャーは価格の高騰で生産国と共に莫大な利益を得ています。世界への原油の販売はドルで行われます。1973年と1980年の二度の石油の高騰から、原油貿易のドル需要が急騰し、ドル基軸通貨の体制は一層強化されました。先進国が高騰した原油を買う必要に迫られたからです。産油国が得たペトロダラーは米銀とFRBへの預金として還流しました。米銀はその約3分の1を世界に再投資しました。日本の株も米国のファンドが250兆円持っています。

第一次石油危機で、他の先進国が6倍に高騰した石油代金のドル支払いで損をする分、米国から海外に出たオイルマネーが米銀に還流する仕組みが作られていました。国際金融におけるペトロダラーの動きで米国は中東の原油価格の高騰によって、自国の商品輸出が増えたかのような、米銀への負債のキャッシュ・フローの増加がありました。この国際的なドルマネーの還流によって原油価格を上げたOPECの生産制限が、どんな目的で実行されたのか推測できるでしょう。

【イラン革命と金価格の高騰】

1979年にはイランの内戦だった民主革命で親米のバーレビ国王が追放されました。米国は国王が米銀に預けていた巨額のドル預金とゴールドを差し押さえ、ホメイニ師の革命政府には渡しませんでした。産油国は、この革命の時も生産の制限をして原油の価格を13ドルから32ドルに上げました。これが第二次石油危機になりました。

この民主革命のあと33年、イランは米国と敵対する国になりました。この時の中東の他の産油国の王族が「いざとなれば、米国と西側の銀行がオイルマネーのドル預金を差し押さえて没収するかもしれない」という懸念を抱き、自国に保管できる金の現物をオイルマネーで買いました。

産油国の買いで、金の売買市場では金の現物が不足しました。1オンス31.1グラムが150ドル付近だった金価格は1979年に3.7倍の595ドル、1980年には瞬間で5.5倍の最高価格890ドルに急騰しました。

キッシンジャー外交からペトロダラーになったドルは、穀物や金属などの資源価格と原油やLNGの価格が上がると、国際的な需要が増えます。他方、円は資源・エネルギー価格が高騰すると、貿易が赤字になるので下がる傾向があります。

密約だったペトロダラー制は、産油国の23カ国のオイルダラーが米国に還流するシステムでした。外交の妥結は相手国との約束です。重要なものほど国民世論への配慮から密約で交わされます。

【1971年から1979年のドル暴落】

金兌換と固定相場の末期にあたる1971年には世界の通貨に対する実効レートが155と歴史上もっとも高かった米ドルが変動相場制になると、1979年からの第二次石油危機まで105へと一直線に下落しました。

ドルの実効レート低下はドルの実質価値の下落です。物価が上がった2度の石油危機の期間、経常収支が赤字の米国経済の凋落を示していました。この間、世界経済で比重が重くなったのは、高品質な製造業のドイツ経済と、省エネ、小型化、高品質化を図った日本経済でした。

日本経済の輸出成長力を示す黒字国の円は、1973年の60から、5年後の1978年は110へと83%上がっています。逆に貿易が赤字を続ける米ドルはペトロダラーの還流システムを作っても、輸出競争に負ける赤字通貨でした。

米国は1970年代に貿易と経常収支の赤字が大きくなりました。米国は政府が赤字、経常収支と貿易も赤字、世帯も企業も資金収支で大きな赤字です。国中が借金過多ですが、株価が2倍、3倍となるバブルで助かっています。

【1979年から1985年は高金利のドルが高騰】

1970年代に大きく下がった米ドルは1978年の105を底に1985年の155まで48%も回復し、実効レートが上がりました。1980年代初期のドル高騰の要因は、FRB議長ボルカーによるインフレ対応の利上げです。

第二次石油危機による物価の二桁の高騰(1980年インフレ率13.5%)に対して、FRBは1980年にFF金利を10.9%に上げました。1981年には19%まで金利を引き上げました。

インフレファイターと呼ばれたボルカーのFRBが引き上げた10%以上の高金利に対して、金利の低い日欧からは大量のドル買いが起こり、米ドルは高騰しました。10%を超える米国の金利は1984年まで続き、世界からのドル買いの超過によるドル高が続きました。

(出典:TRADING ECONOMICS/ドル‐円為替相場)

米国の金利10%台に対して低金利の円売り、高金利のドル買いが大きくなっていました。事業の利益より、ドル買いの利益が大きい会社も増えていました。1980年代の世界では、ドルの高金利から事業利益の20%から40%が金融の利益になる金融の時代が始まりました。

【1985年:プラザ合意で2分の1へドル切り下げ】

変動相場制の通貨レートが上がることは、上がった国の製造コストは同じでも、他国との比較では上がって、海外の安い商品の輸入が増えることを示します。

1979年から85年までの6年間で米ドルは48%も上がり、米国の流通業は、中南米と中国の特区で商品開発を行いました。海外の物価が48%も下がったからです。

米国政府が考えたのは、米国経済の不都合な原因は「ドル高」にあるということでした。米国経済の実力、つまり輸出力以上のドル高のため、ドイツや日本からの輸入が増えました。第二次石油危機で13%高騰していた米国の物価はインフレファイター・ボルカーの利上げにより7%まで下がったものの、米国の景気は悪化しました。

高金利による物価の抑制は不況との引き換えでした。借金の多かったニューヨーク市の財政は金利が10%以上になって破産状態でした。公共投資がなくなったニューヨーク市の街路は凸凹となり、公務員のレイオフが続き、警察官も少ない状況となりました。

米国は高金利によるドル高の1985年に「ドル切り下げ」の決断をしました。G5(米国、英国、ドイツ、フランス、日本)の蔵相をプラザホテルに招集し、会議を開きました。米国に対する貿易と経常収支の黒字が大きなドイツと日本が交渉の中心でした。

米国は財政収支と経常収支が赤字であり、ドイツと日本に大量のドルを払っていました。米国の目的は米国経済の輸出力にとって高すぎるドルの切り下げでした。円に対してドルは260円でした。

ドルの切り下げはドルの外貨準備を最も貯めていたドイツと日本がドル売りを行うことです。両国がドルを売れば、買い手が少なくなったドルは下がります。

米ドルは1985年の260円から1987年には160円になりました。1987年の年末には1ドル120円の円高、

ドル安に下がりました。

米国はドイツと日本に対米輸出を減らし、内需を拡大することを要求しました。プラザ合意があった1985年の2分の1へのドル切り下げで、日本とドイツは保有外貨準備とドル建て対外資産の評価が半分になって損をしています。わずか3年で円は2倍になりました。

ドイツはドル圏から逃れるためユーロ作りに取りかかりましたが、日本では通貨の面では金融緩和以外は何もしませんでした。

急な円高がもたらした輸出不況に対して日銀は金融緩和をし、政府は財政を拡大して、1985年から1989年の西側世界で過去最大の資産バブルを生みました。

日本の円は2倍の円高で1986年から1995年の10年間は、現在のスイスのように世界一物価の高い国になりました。海外旅行費は半分に下がりました。現在の150円台のドル高、円安の真逆です。

日本経済は急な円高から輸出不振となり、円高不況となりました。その不況に対応するために金融緩和を行い、その結果として、バブル経済へと突入することとなったのです。

続く


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