中国の銀行不正3割増、22年最多更新 金融不安誘発も~日中バブル崩壊は似ている?~【日経新聞をより深く】
1.中国の銀行不正3割増、22年最多更新 金融不安誘発も
中国での金融不正の摘発が増えているようです。これは、中国のバブルが崩壊していることによる現象なのでしょうか。
日本でも1990年代にバブルが崩壊しました。そして、そのバブル崩壊に中国の現在が似ているとも言われています。日本のバブルとその崩壊を出来事で追ってみたいと思います。
2.バブル期の出来事、崩壊の引き金の出来事
三重野氏が目指した「金利5%」 理論的根拠は曖昧
株市場最高値3万8915円87銭
総量規制
3.バブル崩壊
バブル崩壊(株価)
日経平均株価のピークは、1989年12月29日の38,915円87銭でした。そして、1990年1月4日の大発会以降、株価の大幅下落が始まりましたが、当時このような株価の下落を予想した人はほとんどいませんでした。1990年1月3日の日経新聞「株価アンケート調査」は、主要企業20社の経営者に年間の株価の安値と高値を聞いていますが、高値では最も高かったのが48,000円、安値で最も安かったのが36,000円となっています。当時の株価に対する認識がいかに楽観的であったかが分かります。年初の時点では、「いつ4万円に乗るか」が期待されていたのです。
1990年初めからの株価の下落は、株式、債券、円が揃って値下がりしたことから「トリプル安」と呼ばれました。
まず、株価は1月4日の大発会で202円の暴落を記録した後も下がり続け、1990年4月2日には28,002円まで暴落しました。たった4カ月の間に10,913円、28%もの下落でした。その後、株価は7月には33,000円台まで戻したものの、8月2日のイラクのクウェート侵攻(湾岸戦争の始まり)をきっかけに再び下落し、10月1日には2万円台の大台を割りました。
こうして株価が下落したことについて、後世のバブル崩壊を知る私たちは「バブルが崩壊したからだ」と一括して考えがちですが、それぞれの時点では、個々の事象を取り上げて、その背景についての解釈が行われていました。1990年の株価下落についての当時の解釈としては、次のような点が指摘されています。
①日本の政局不安
リクルート・ロッキード関係議員の選挙後の登用をめぐる混乱などがあった。
②日米構造協議への不安
日米構造協議自体は6月に決着するのだが、交渉の過程で200項目以上にもわたる米側の構造改善要求が明らかになるといった出来事があった。
③金利の上昇
日本銀行は1989年5月以降、1989年中に3回にわたって公定歩合を引き上げたが、1990年に入ってからも2回の引上げを行った。
④湾岸戦争
8月以降イラクのクウェート侵略に伴う中東情勢の緊迫で原油価格が上昇した。
トリプル安の2つ目の債券相場については、1990年の年初から、日本銀行の金利引上げを先取りする形で、10月ころまでほぼ一貫して下落し続けました(利回りは上昇)。国債の利回りは、1989年末の5%半ばから、1990年末には8%台半ばまで上昇しています。
トリプル安の3つ目の円相場については、年初1ドル145円台であったものが、株価の下落と連動するように下落し続け、4月2日には160円台をつけるまでになりました。ただし、円相場については、5月以降は一転して円高に転じ、10月14日には124円台となっています。
このトリプル安に対する当時の解釈は、それまで円高が進行して金利が下がるという期待が支配的であったのが、日本の政局不安などから円安が進んだため、このシナリオが崩れ、金利が上昇して株価も低下したものとするものでした。
1990年末から1991年初にかけて、株価は、一時回復しましたが、企業業績の悪化や証券不祥事の発覚もあって、1991年末にかけては総じて軟調に推移しました。1992年に入ると、景気が減速感を強めるなかで、一時金融システム面の懸念が生じたこともあって、株価は下落傾向を強め、3月に2万円を割った後、8月18日には14,309円となりました。この時が当面の最安値となっており、ピークからの下落率は63%でした。
最安値を記録した後は、大蔵省による「金融行政の当面の運営方針」の発表や政府の「総合経済対策」の決定を受けて株価は急反発し、8月末には1万8,000円台を回復しました。その後、1993年2月までおおむね横這いで推移した後、3月に入って景気底入れ期待感の高まり等から上昇し、4月には約1年振りに2万円台を回復しました。
こうした株価の上下に歩調を合わせて、株式取引高も増減しています。東証一部の一日平均売買高をみると、バブル期の1998年には10億株を上回っていましたが、株価下落とともに減少し、1992年には2~3億株にまで落ち込んでおり、株式の取引そのものがきわめて低調に陥ったことを示しています。
バブル崩壊(地価)
地価は、東京圏においては1998年、大阪圏では1990年に上昇が沈静化していましたが、1991年以降大都市圏から本格的に下落に転じました。1992年1月の公示価格(全国全用平均)は、前年比4.6%の低下となっていますから、地価は1991年から下がり始めたことが分かります。地価が下がるのは、1975年1月以来のことでした。1992年に入ると、地価は下落テンポを速め、1993年1月の公示価格は前年比8.4%の下落となりました。
なお、株価、地価の下落だけでなく、ゴルフ会員権、高級絵画等の資産価格も大幅に値下がりしました。
4.バブル崩壊時の事件
損失補填発覚 1991年6月20日
野村証券が前年初めの株価急落による大口顧客の損失を補填していたことが判明し、野村證券の田淵義久社長と日興証券の岩崎琢弥社長が引責辞任した。
イトマン事件 1991年7月23日
大阪の中堅商社・旧イトマンから数千億円ともいわれる巨額の資金が闇の世界に流れた戦後最大級の経済事件で、同社の河村良彦社長と伊藤寿永光元常務、「地下金脈の大物」などと言われた会社役員許永中元受刑者が商法違反容疑などで逮捕された。
さらなる損失補填 1991年7月29日
野村、大和、日興、山一の大手証券4社の社長がそれぞれ記者会見し、特定投資家に対する損失補填リストを公表した。補填先は延べ228法人と3個人。補填総額は1283億円。補填先には日本を代表する大企業はじめ公的な資金を運用する団体やノンバンク、地方銀行や農協系金融機関、中小金融機関が含まれていた。
東洋信金事件 1991年8月13日
東洋信用金庫が舞台の巨額不正融資事件で料亭経営者の尾上縫元被告らが逮捕された。兆円単位という個人としては空前絶後の資金を動かし、「なぞの女相場師」と呼ばれた。
2信組乱脈融資 1995年5月10日
1994年12月に破綻した東京協和信用組合と安全信用組合の乱脈融資事件で、東京地検は東京・銀座の「イ・アイ・イ」本社を家宅捜索した。社長の高橋治則氏(故人)は東京協和信組理事長で、バブル期にホテルなどを次々買収し「リゾート王」と呼ばれた。信組破綻をめぐり背任罪で逮捕され、有罪判決を受けた。
大和銀行巨額損失 1995年9月26日
大和銀行ニューヨーク支店で、米国債の売買に絡み11億ドルの損失を出したことが判明。組織ぐるみの損失隠ぺい工作も問われ、米国からの業務撤退に追い込まれた。
三菱銀行と東京銀行の合併 1995年3月28日
都市銀行大手の三菱銀行と東京銀行は28日、来年4月をめどに対等合併することで基本的に合意した。新銀行の預金量は当時、金融債を含めて52兆円に達し、世界最大となった。
日銀特融 1995年8月30日
バブル時代の不動産融資が不良債権化し、経営が悪化した兵庫銀行と木津信用組合に対して、旧大蔵省と日銀は自主再建が困難と判断して破綻処理をする、と発表した。兵庫銀行では、経営破綻が表面化したことで、預金払い戻しなどのための資金繰りが困難になり、日銀は、同行が通常の銀行業務を継続するのに支障がないよう、特別融資(日銀特融)を実施した。
阪和銀行の業務停止命令 1996年11月21日
旧大蔵省は、阪和銀行(本店・和歌山市)に対し、預金の払い戻しを除く業務停止命令を出した。同省が銀行の業務停止命令を出すのは戦後初めて。9月中間決算で、債務超過額が確定分だけで200億円にのぼり、自主再建が困難と判断した。不良債権額は1900億円に達した。
三洋証券倒産 1997年11月3日
準大手証券会社の一角を占めた三洋証券が、バブル時代の過剰投資の影響で経営が悪化、会社更生法の適用申請をした。
拓銀経営破綻 1997年11月17日
巨額の不良債権を抱え、経営不振に陥っていた都市銀行の北海道拓殖銀行が破綻し、北洋銀行への営業譲渡を発表した。
山一証券経営破綻 1997年11月24日
山一証券が自主廃業を決定した。バブル経済崩壊後の株価下落で被った巨額損失を別会社につけかえて決算から外す「飛ばし」による簿外債務の発覚や資金調達が引き金となった。店舗や社員の一部はメリルリンチが引き継いだが、その後、大幅にリストラされた。
長銀、国有化 1998年10月23日
日本長期信用銀行が3400億円の債務超過に陥り、政府は破綻を認定し、長銀の全株式を国が強制的に買い上げる特別公的管理(一時国有化)を決めました。民間銀行の国有化は戦後初。
日債銀、破綻 1998年12月13日
政府は、多額の不良債権を抱えて財務内容が悪化した日本債券信用銀行に対し、金融再生法36条(破綻処理)に基づく特別公的管理(一時国有化)を決めた。破綻を招いた経営陣の刑事責任も追及され、翌年、長銀・日債銀元頭取が相次ぎ粉飾決算の疑いで逮捕された。
5.中国はどうなる
中国共産党は日本のバブル崩壊の様子を研究していると言われています。
しかし、日本のバブル崩壊を振り返ってみると、中国の現状とよく似ているのではないでしょうか。
香港の株式市場がまずピークをうち、下落し続けています。そして、不動産にも規制が入り、不動産価格が下落しています。そして、恒大集団など大手デベロッパーが破綻しています。
日本でも金融機関の損失補填や粉飾決算などの不祥事が相次ぎました。中国の金融機関でも、不祥事が表に出てきており、これから、本格的にバブル崩壊の症状が表に出始めてくるかもしれません。
ただ、中国共産党の統制が強い中国では、日本のようなペースで一気に破綻するということはないかもしれません。しかし、長引けば、不良債権の額はますます膨らんでいきます。
日本の失われた30年。日本の人口がピークに近い頃でした。中国でも人口はピークを打ち、減少を始めています。
中国のバブル崩壊は日本よりも2倍は大きなものになるはずです。2023年以降、中国のバブル崩壊が表に出てくれば、ドル建て債務も巨額なため、世界を巻き込む崩壊になってくるでしょう。
未来創造パートナー 宮野宏樹
【日経新聞から学ぶ】