戦後の金融体制を知る③バブル崩壊から銀行危機まで
【史上最大のバブル】
日本経済の成長を引っ張っていた輸出が、円高に向かった1985年から減り、円高不況に突入しました。日銀は、輸出を減らしたプラザ合意以降の円高に対応するため、国債を発行して公共工事を増やして内需の拡大を図り、金利を下げて貸付を極端に緩めました。緩和マネーは内需である設備投資に向かうより、金融資産の株と不動産の買いへと向かっていきました。
ここから歴史上最大のバブル経済が始まりました。日経平均は1980年に7000円、1985年に1万2000円でしたが、1989年の年末には史上最高の3万8915円に上がりました。4年で3.2倍、年間34%の急騰でした。
5年で東京23区の地価は2倍に上がり、大阪も2倍、名古屋は3倍、札幌、仙台、福岡、広島も約2倍になりました。日本の銀行融資は土地担保で行われ、普通、担保価格(路線価)は70%程度ですが、80年代後半は100%、120%もありました。1年で25%も土地が上がっていたので、それが成り立つと思われていました。
にわか不動産投資家も、まず土地を買い、値上がり分の追加融資を受けて、また次の土地を買うというスパイラルな投資をしていました。芸能人、有名人も皆、不動産投資をしているというような時代でした。
日本人の所得は米国を超え、スイスと一緒に世界一のグループでした。1985年から89年の5年間、預金が世界一多く、株価と不動産も世界一になった日本人は、幻の資産バブルの中で世界最高の豊かさを享受しました。それはわずか5年の幻でした。
住宅価格も米国の2倍でしたが、2000年には3分の1に下がりました。
土地バブルが残っていた1994年までは日本中が浮かれていました。三菱地所はニューヨークの中心にあるオフィスビル、ロックフェラーセンターの買収し、ジャパンマネーが世界を震撼させる象徴となりました。当時の米誌が「米国の魂を買った」と非難し、日米経済摩擦の火種にもなったほどです。しかし、結果としては6000億円で買収し、3000億円で手放しました。
【バブル崩壊】
暗転は1990年の正月明けからでした。PER(株価収益率)が80倍と異常な高さだった日本株に、米国のファンドが、空売り、先物売り、売りオプションを仕掛けました。
空売りは、証券会社から株を借りて売って、満期に買い戻して返済する方法です。
先物売りは「現物価格+満期までの期間金利」の先物を売って、満期の時価で買い戻して清算します。
オプションの売りとは、売る権利の行使価格を設定し、ボラティリティ+期間金利のオプション料を払って、設定した権利行使価格で期間内に売る権利を得ます。証券会社がその売りオプションを買って取引相手になります。
いずれも株価が下がった時、証拠金の10倍から30倍くらいのレバレッジのかかった利益、又は損失が出ます。
日本人投資家は空売りは知っていました。ただし、先物の売りと、権利行使価格で売る権利を買うオプションの売りは知りませんでした。1990年1月に、約5年続けて1年に34%上昇した株価がどのような理由で急落したのか、わかっていませんでした。
日本株はまだ上がると考え、下がった株を買う逆張りを入れて破産した個人投資家が多数いました。
日経平均は1989年末の高値3万8915円から1992年1月に1万7000円まで、60%も下がりました。600兆円だった時価総額は約3分の1の240兆円となってしまったのです。株価から360兆円が消失しました。恐慌的な不況になるのは当然です。
1990年には、日銀の利上げと引き締め、不動産融資の総量規制、不動産融資を禁じる強力な窓口規制を行い、大蔵省と日銀が資産バブルを崩壊させました。
バブル崩壊時には様々な事件が起こりました。それを時系列で振り返ってみます。
損失補填発覚 1991年6月20日
野村証券が前年初めの株価急落による大口顧客の損失を補填していたことが判明し、野村證券の田淵義久社長と日興証券の岩崎琢弥社長が引責辞任した。
イトマン事件 1991年7月23日
大阪の中堅商社・旧イトマンから数千億円ともいわれる巨額の資金が闇の世界に流れた戦後最大級の経済事件で、同社の河村良彦社長と伊藤寿永光元常務、「地下金脈の大物」などと言われた会社役員許永中元受刑者が商法違反容疑などで逮捕された。
さらなる損失補填 1991年7月29日
野村、大和、日興、山一の大手証券4社の社長がそれぞれ記者会見し、特定投資家に対する損失補填リストを公表した。補填先は延べ228法人と3個人。補填総額は1283億円。補填先には日本を代表する大企業はじめ公的な資金を運用する団体やノンバンク、地方銀行や農協系金融機関、中小金融機関が含まれていた。
東洋信金事件 1991年8月13日
東洋信用金庫が舞台の巨額不正融資事件で料亭経営者の尾上縫元被告らが逮捕された。兆円単位という個人としては空前絶後の資金を動かし、「なぞの女相場師」と呼ばれた。
2信組乱脈融資 1995年5月10日
1994年12月に破綻した東京協和信用組合と安全信用組合の乱脈融資事件で、東京地検は東京・銀座の「イ・アイ・イ」本社を家宅捜索した。社長の高橋治則氏(故人)は東京協和信組理事長で、バブル期にホテルなどを次々買収し「リゾート王」と呼ばれた。信組破綻をめぐり背任罪で逮捕され、有罪判決を受けた。
大和銀行巨額損失 1995年9月26日
大和銀行ニューヨーク支店で、米国債の売買に絡み11億ドルの損失を出したことが判明。組織ぐるみの損失隠ぺい工作も問われ、米国からの業務撤退に追い込まれた。
三菱銀行と東京銀行の合併 1995年3月28日
都市銀行大手の三菱銀行と東京銀行は28日、来年4月をめどに対等合併することで基本的に合意した。新銀行の預金量は当時、金融債を含めて52兆円に達し、世界最大となった。
日銀特融 1995年8月30日
バブル時代の不動産融資が不良債権化し、経営が悪化した兵庫銀行と木津信用組合に対して、旧大蔵省と日銀は自主再建が困難と判断して破綻処理をする、と発表した。兵庫銀行では、経営破綻が表面化したことで、預金払い戻しなどのための資金繰りが困難になり、日銀は、同行が通常の銀行業務を継続するのに支障がないよう、特別融資(日銀特融)を実施した。
阪和銀行の業務停止命令 1996年11月21日
旧大蔵省は、阪和銀行(本店・和歌山市)に対し、預金の払い戻しを除く業務停止命令を出した。同省が銀行の業務停止命令を出すのは戦後初めて。9月中間決算で、債務超過額が確定分だけで200億円にのぼり、自主再建が困難と判断した。不良債権額は1900億円に達した。
三洋証券倒産 1997年11月3日
準大手証券会社の一角を占めた三洋証券が、バブル時代の過剰投資の影響で経営が悪化、会社更生法の適用申請をした。
拓銀経営破綻 1997年11月17日
巨額の不良債権を抱え、経営不振に陥っていた都市銀行の北海道拓殖銀行が破綻し、北洋銀行への営業譲渡を発表した。
山一証券経営破綻 1997年11月24日
山一証券が自主廃業を決定した。バブル経済崩壊後の株価下落で被った巨額損失を別会社につけかえて決算から外す「飛ばし」による簿外債務の発覚や資金調達が引き金となった。店舗や社員の一部はメリルリンチが引き継いだが、その後、大幅にリストラされた。
長銀、国有化 1998年10月23日
日本長期信用銀行が3400億円の債務超過に陥り、政府は破綻を認定し、長銀の全株式を国が強制的に買い上げる特別公的管理(一時国有化)を決めました。民間銀行の国有化は戦後初。
日債銀、破綻 1998年12月13日
政府は、多額の不良債権を抱えて財務内容が悪化した日本債券信用銀行に対し、金融再生法36条(破綻処理)に基づく特別公的管理(一時国有化)を決めた。破綻を招いた経営陣の刑事責任も追及され、翌年、長銀・日債銀元頭取が相次ぎ粉飾決算の疑いで逮捕された。
バブル崩壊によって1994年に地下は20%程度下がり、95年には30%下がって、底を打ったのは1997年になってからでした。担保の不動産と株価下落から銀行危機に向かっている時でした。都市部の商業地の地価は3分の1に下がり、地下の下落は不動産融資をした銀行の担保不足となり、多額の不良債権を生み出すこととなりました。
【1995年から2002年までの円とドル】
1995年は、円が1ドル79円という1990年代の最高値をつけた時でした。
反対に世界の通貨に対するドルの実効レートは、100に下がっていました。1985年のプラザ合意によるドルの切り下げが効いていました。
日本の資産バブルが崩壊するときに、なぜ逆に円の実効レートは90年の95から95年の150まで58%も上がったのか。
その理由は日本の経常収支が91年の680億ドルから94年は1300億ドル、95年は1100億ドルに増えていたからです。
円高の傾向の時にドルを売って円を買えば、為替差益があります。海外からの円買いも増えていました。通貨の上昇による為替差益は、ほぼ常に金利よりも大きくなります。しかし、束の間の1ドル79円の円高は1995年からは一転し、円の実効レートは155のピークから1998年の95にまで4年で39%も暴落しました。
ドルー円のレートでは130円でした。95年のピークの1ドル79円からすると、51円も円安になりました。円安の原因は、資産バブル崩壊から7年が経過した後に起こってきた銀行危機でした。融資による運用が多い日本の銀行危機は、融資の20%に相当する不良債権の増加による自己資本の喪失ですから、通貨の危機になります。通貨を支えているのは銀行システムだからです。
銀行危機は、回収できなくなった不良債権によって国の通貨の期待値が下がることです。円はプラザ合意後の円高の1995年の1ドル79円の時に比べ、世界から「弱い通貨」とみなされるようになっていました。
1997年からは、資産バブル崩壊の始まりから7年目に襲ってきた日本の銀行危機となっていきました。土地担保、株式担保を保有する証券と銀行に、地価と株価も下落したことからの信用危機が起こりました。政府は不良債権を100兆円以下としていましたが、実際はおそらく200兆円はあったと思われます。
日銀は戦後初めての銀行の危機に対して、1997年に金利を0.25%、1998年にはゼロに下げました。銀行への際限のない現金の供給のため銀行の国債を買う量的緩和を始めました。
ゼロ金利と量的緩和は、日銀が世界で初めてでした。金融理論では不可能と思われていたゼロ金利を日銀は世界で最初に始めたのです。ゼロ金利では預金が流出するとされていました。しかし、日本人は金利がゼロの預金でも減らさず、貯蓄率は下がったものの預金の金額を増やしていました。日銀はこのため、ゼロ金利を長期化することができました。
金利がゼロ%であれば、普通は増えるはずの借り入れが日本では増えず、生産性を上げる機械投資と設備投資も増えませんでした。原因は1990年代から日本の潜在成長力が下がり、GDPの期待成長率がゼロ%付近に下がっていたことでした。
労働の増加がなく、企業の生産性も上がっていませんでした。現在もこれが続いています。
1997年の日銀はゼロ金利を世界で初めて実施した不名誉な先駆者となりました。
2000年には90年代の資産バブル崩壊による不良債権の増加があり、都銀21行が3つのメガバンクに統合されていきました。振り返ると凄まじい統合劇です。
【銀行の統合が意味すること】
銀行の統合とは、すなわち破産のことです。
政府は銀行を破産させて預金を無効にはできません。財務省が、破産とはされない統合を銀行に命じ、日銀が資金を入れたのです。日本では、1990年から2005年の15年間で200兆円の不良債権の処理を政府が行い、その過程で21の都銀と証券会社が3つのメガバンクのグループに統合されていきました。それが、現在の三菱UFJ、三井住友、みずほフィナンシャルグループの金融グループです。
銀行預金や証券会社への預け金を無効にすれば、金融システム全体が信用を失い、預金が流出して実体経済の恐慌になります。中央銀行は銀行危機を救済する最後の銀行という目的を持っています。これは世界に共通しています。
今後も政府は預金を完全に無効にはできないと考えても良いでしょう。全額保護されないにしても、引き出し制限があったにしても、完全には無効にはできない。大恐慌となってしまうからです。
銀行危機の日本でも、銀行統合で預金は全額が保護されました。その代わり、預金の金利はゼロとなりました。
金利ゼロは、外為市場ではゼロ金利の円売りと2%から3%の金利がつくドル買いを促します。つまり、円安、ドル高を促します。こうして1995年のドルの実効レートが100の底から130にまで上がりました。
これはドルが強いためのドル高ではありませんでした。銀行危機による円の弱体化が「ドル高、円安」の原因でした。
日本経済は資産バブル崩壊の1990年以降、いつまで続くか見通しがつかないGDPと所得のゼロ成長に陥っていきました。
早い速度で高齢化が進行することが確実な日本経済ではGDPの期待成長率が0%から1%と低くなります。この為、企業が経済を成長させる減価償却費以上の設備投資ができなかったのが根本の原因です。GDPとは企業の付加価値生産額です。
GDPが増えない国では、新規投資の利益回収が難しくなります。店舗を出しても高齢化と世帯所得低下で地域需要が増えないから、既存店でいっぱいです。価格を下げて売らないと売上が確保できず、金利よりも高い投資回収率が期待しにくくなります。この為、設備投資が減って、GDPも増えなくなります。
1990年から現在に至るまで日本では、地域需要を増やす世帯所得の増加がありません。世帯所得の平均は1995年に比べて20%も減ってきました。世帯所得が最低でも2%から3%は増えない経済は成長しません。
期待物価上昇率を含む名目GDPの期待成長がゼロだったから、日銀のゼロ%金利が可能となったのです。つまり、お金の持って行きどころはどこにもなかったから、0%の金利でも預金の流出は起こらなかったのです。
しかし、一方では、このゼロ金利が円安をもたらしました。
日本では円安がいいという、2010年代以降では根拠が薄弱となった円安イデオロギーがまだ蔓延しています。2023年の現在も円安好感論があります。
しかし、根本的に通貨安は国力の低下の象徴です。日本はこの後、貿易が赤字基調の国へと変化していくことになりました。
続く