イスラエル・パレスチナ問題を知る ④
5.第一次世界大戦から第次世界大戦終了まで
【第一次世界大戦の概要】
19世紀末から帝国主義諸国は英国の3C政策、ドイツの3B政策に見られる世界戦略を推し進め、アフリカ、中東、南アジア、中国、太平洋地域で世界の分割を競い合っていました。
英国の3C政策とは、南アフリカのケープタウン、エジプトのカイロ、インドのカルカッタを結ぶ三角形地帯を押さえるという英国の帝国主義政策を指します。ケープタウンとカイロを結ぶアフリカ縦断政策はフランスのアフリカ横断政策と対立し、カイロとカルカッタを結ぶ「エンパイア・ルート」はロシアの南下政策、ドイツの3B政策と衝突しました。
ドイツの3B政策とはドイツのヴィルヘルム2世のとった帝国主義政策で、ベルリン~イスタンブール~バグダッドをを結び、中東に進出しようというもので、英国の3C政策と対立しました。
さらに、バルカン半島ではロシアの南下政策とオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合による対立がバルカン問題として深刻化していました。
当時は、帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念が通用しており、世界戦争は回避あるいは抑止されると見られていました。しかし、それは1914年6月28日、サラエボの一発の銃弾でもろくも破綻したといえます。
1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・英国の連合国側(協商国側ともいう)との世界戦争に拡大しました。ドイツは8月1日にロシア、8月3日にフランスにそれぞれ宣戦布告、8月4日にベルギーに侵攻しました。それを受けて、同日、英国がドイツに宣戦布告しました。この日、米国は中立を宣言しています。
戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線が展開されましたが、他にオスマン帝国とブルガリアが同盟国側に参戦したので、バルカン半島から西アジアにかけての広い範囲に宣戦が広がりました。
さらにドイツ勢力圏の及んだアフリカでの戦闘や、中国・南太平洋のドイツ権益に対して日本が参戦して攻撃するなど、地球的規模で戦争が広がりました。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人・軍隊だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた総力戦とならざるを得なくなりました。
また、戦争の形態は高度に技術化され、飛行機、潜水艦、戦車、毒ガスなど新しい武器を出現させ、戦争は戦闘員のみならず、一般市民を巻き込み、広範な犠牲を人的、物的に及ぶす戦争となりました。
しかし、戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦機運を高めていきました。決定的な転換となったのは、1917年4月6日の米国の参戦と1917年11月7日のロシア革命(第2次)でした。
米国の参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出しました。ドイツ国内でも兵士・労働者のドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位してオランダに亡命、1918年11月11日に停戦協定が結ばれ、戦争は終結しました。
翌年パリ講和会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約が講和条約として締結され、新たな国際的平和維持機構として国際連盟を発足させ、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換しました。
中東ではオスマン帝国の崩壊に乗じて、英国、フランスによる新たな勢力圏分割が行われることになりました。
【英国の委任統治】
英国、フランス、イタリアなど戦勝国は、まず1920年イタリアでサン・レモ会議を開催し、戦前の秘密協定(サイクス・ピコ協定)に基づき、オスマン帝国領のアラブ地域の分割協議を行いました。そして、アラビア半島以外のメソポタミア・パレスチナなどのアラブ人居住地域をオスマン帝国領から外し、英国とフランスの委任統治とすることを決定しました。委任統治(詳細は後述)とは国際連盟規約第22条で規定されている、旧植民地で自立する条件のない地域を、国際連盟に委任された先進国が受任国として統治する方式です。
また、バルフォア宣言を確認し、ユダヤ人国家建設を合意しました。英国とフランスは別に石油協定を結び、利権を分割しました。
英国、フランス、イタリアはサン・レモ会議の合意を経て、パリ郊外のセーブルで連合国とオスマン帝国の講和会議を開催し、1920年8月に講和内容をセーヴル条約として押し付けました。それはオスマン帝国に対する事実上の解体、主権の喪失を含む過酷な講和条約であり、以下のような内容でした。
・小アジア(アナトリア)のトルコ領はイスタンブールとアンカラ周辺のみとする。フランスは東南部、イタリアは南部を勢力圏とし、西部はギリシアに割譲する。
・小アジア東南部のアルメニア及びクルディスタンはそれぞれ独立させる(その意図はソビエト連邦に対する防御線)
・イラク、トランスヨルダン、パレスチナは英国の、シリア(レバノン含む)はフランスの委任統治とする。
・キプロス島は英国に割譲する(英国はエジプト、メソポタミア、パレスチナからインドへのルールの確保を図った)
・ダーダネルス・ボスフォラス海峡は国際管理とする。
・治外法権(カピチュレーション以来の権利)はそのままとし、財政は英国、フランス、イタリアの監視下に置かれる。
トルコ人にとっては屈辱的な領土分割であり、不平等条約でしたが、オスマン帝国のスルタン・メフメト6世は、連合国による一身の安全と財産保証を秘密条約としてセーヴル条約に調印したのです。
しかし、国民は批准拒否に起ち上がりました。ムスタファ・ケマル率いる国民軍はこの条約の破棄を目指して決起したのです。
既に1919年5月にギリシャ軍が小アジア西部のスミルナに侵攻し、ギリシャ・トルコ戦争が戦われていたので、トルコ人は民族と祖国の危機に直面し、ムスタファ・ケマルのもとで結束しました。苦しい戦いが続いた後、トルコ人はギリシャ軍を撃退し、さらにスルタン政府軍との戦いにも勝利して1922年にトルコ大国民議会がスルタン制廃止を決議したことによってオスマン帝国は滅亡しました。
その結果、このセーヴル条約は破棄されて、代わって1923年7月にローザンヌ条約が締結され、トルコは小アジアとイスタンブール周辺の領土と主権を回復します。その上で、1923年10月29日に正式に「トルコ共和国」を樹立しました。この時確定した領土が、現在のトルコ共和国の領土となりましたが、隣国ギリシャとの国境紛争はその後も続きました。
そして、オスマン帝国が放棄を認めた西アジアのシリアからメソポタミア、パレスチナ一帯の大部分は英国・フランスの委任統治領とされました。アラブ系民族居住地域は戦勝国である英国とフランスの利害に従って線引きされました。それによって、現在の西アジアの中東諸国、イラク、シリア、レバノン、そしてパレスチナが生まれることになりました。この境界線の設定は英国・フランス両国の「勝手な線引き」によってなされたため、宗教分布、民族分布の実態と一致しない結果となりました。
英国はアラビア半島における反オスマン帝国勢力としてメッカの太守ハーシム家のフセインと、フセイン・マクマホン協定を結び、アラブ国家建設を支援することを約束していました。1918年にはアラブ人の国家としてヒジャーズ王国の建国を宣言、アラビア半島のヒジャーズ地方(聖地メッカやメディアを含む)を中心に紅海沿岸を支配しました。
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でヒジャーズ王国は国際的に承認されましたが、英国、フランスは既にサイクス・ピコ協定でオスマン帝国の分割を合意していたため、フセインの願ったアラブ統一はなりませんでした。
一方、アラビア半島の内陸のネジト地方ではリヤドを拠点としたイブン・サウード(アブドゥルアジーズ)がイスラム原理主義の一派であるワッハーブ派と結びながら勢力を拡大していました。英国はハーシム家のフセインだけでなく、イブン・サウードへも支援を行い、アラブ人を競わせていました。早くから両家の対立は始まっていましたが、次第にイブン・サウードが優勢となり、1924年にフセインがカリフ就任を宣言したことに対するアラブ諸民族の反発を利用してヒジャーズ王国に攻勢をかけました。
1924年10月にメッカが陥落し、フセインはアカバに退去。長男のアリーが王位を継承しましたが、残る港町ジェッダも1年にわたる包囲戦の結果、1925年12月までに降伏しました。翌1926年1月8日、イブン・サウードがヒジャーズ・ネジド王国の建国を宣言、ヒジャーズは併合されました。この王国は1932年に「サウードのアラビア」という意味のサウジアラビア王国に改称し、現在に至っています。
こうしてフセインは敗れましたが、英国はフセインに対する約束があったので、委任統治領をその王子たちにあてがって、国王としました。三男のファイサルはイラク王国、次男のアブドゥッラーはトランスヨルダン王国の国王となりました。
【委任統治という新植民地政策】
第一次世界大戦の戦勝国が、敗戦国から奪った植民地を領土に編入することは、領土拡張競争が大戦の原因であったことへの反省から、あからさまにはできませんでした。しかし、その権利を放棄することも戦争に協力した国民感情が許さず、戦勝国が国際連盟からその管理を委任されたという形をとって実質的な支配権を確保しました。
米国大統領ウィルソンは大戦後の国際社会の指針として十四カ条を発表、その中で民族自決を高らかに掲げていたので、委任統治という方法は植民地大国であった英国、フランスがウィルソンに憚って考えた便法といえます。以下にその内容を見ておきます。
1919年1月に始まったパリ講和会議での議論を経て、4月に国際連盟規約が合意され、それは6月にヴェルサイユ条約の第1編として調印され、成立しました。「委任統治」という概念はウィルソンの「民族自決」という理念と、現実の植民地支配の利益とを妥協させた産物として、国際連盟規約第22条に規定されました。
国際連盟規約第22条では、「委任統治」とは「近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところ」の「福祉と発達をはかること」は「文明の神聖なる使命」であるが、それを実現する最善の方法は「後見の任務を資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのに最も適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し、連盟に代わる受任国としてその国の後見の任務を遂行させることである」としています。
しかし、それは事実上の植民地支配だったといえます。旧ドイツ帝国領、旧オスマン帝国領だった地域については、国際連盟規約第22条に規定される「まだ自立しえない人々が居住しているところ」であるとして、ひとまず国際連盟に譲渡され、その上で先進国にその統治を「委任」という方式で処理されることになりました。委任を受けた国を受任国といいます。
最大の焦点であった旧オスマン帝国領については、1920年8月のセーヴル条約で細目が定められ、英国とフランスが分割して委任統治することとなりました。
委任統治はその自治の度合いでABCの三段階にランクされました。Aランクは自治の度合いが高い地域(早期に独立を促すことが可能な地域)であり、住民には受任国の国籍が与えられました。B、Cランクは住民の水準が自治を与えられるのにふさわしくない地域で、国籍は与えられませんでした。ABCの実際の区分は以下にように行われました。( )内はそれぞれの受任国です。
委任統治といっても事実上の植民地であり、帝国主義国による新たな世界分割方式にすぎず、これらの地域では「民族自決」の理念は適用されませんでした。
【英国の委任統治とユダヤ人の入植】
パレスチナは1922年から英国の委任統治が始まり、ユダヤ人は約束に基づいてパレスチナの地に移住してきました。英国は1917年のバルフォア宣言でユダヤ人に対する大戦後のパレスチナにおける「ホームランド(民族の故郷)」の建設を約束していましたが、それは必ずしも国家を意味するものではなく、また移住に際してはパレスチナ人(アラブ居住者)の権利を侵害しないことという条件が付されていました。
当初のユダヤ人入植者はロシアとポーランドからが多く、すでに居住していたアラブ人(パレスチナ人)と共存していましたが、ユダヤ人が増加し、貧しいアラブ農民が土地をユダヤ人に売却するケースも増え、次第に対立感情が醸成されていきました。ユダヤ人入植者はキブツという集団農場を建設し、ハガナという軍事組織を持ってパレスチナ人との衝突に備えるようになり、両者の間には武力衝突も始まりました。
その頃、中東で相次いで石油の油田が発見され、英国は中東への関心を強め、アラブ人を懐柔するため、ユダヤ人の移住を制限し、パレスチナ人国家の建設を容認する提案をしました。(1937年のピール委員会分割案、39年のマクドナルド白書)
しかし、ユダヤ人、パレスチナ人双方に拒絶され、その双方から英国統治への反発があり、しばしば暴動が起こりました。
英国の委任統治下でユダヤ人の入植が急増したことに対し、1920年から30年代にパレスチナのアラブ人農民や労働者による大規模な抵抗運動が開始されました。その指導者の一人シェイフ・カッサームはユダヤ人入植地と英国のジハード(聖戦)を呼びかけ、1935年4月に英国軍と戦い、投降を拒否して戦死しました。その武闘路線はカッサーム同胞団などの青年グループに引き継がれ、翌36年からの「パレスチナ蜂起」となりました。カッサームはパレスチナ革命に殉じた最初のフェダイーン(自由の戦士、自己犠牲者)として後世に名を残し、1987年にガザ地区で勃発したインディファーダ(第1次)を指導したハマスの軍事部門は、イッズッディーン・アル=カッサーム旅団と名づけられています。
アラブ人の抵抗にもかかわらず、ユダヤ人の入植はさらに増加しました。背景には1930年代からのナチス・ドイツのユダヤ人迫害、そしてその後のユダヤ人絶滅政策から逃れてきた人々が多かったことがあります。また、パレスチナのアラブ農民の中にもユダヤ人に土地を売却する者も多く、その入植地は急速に増えていきました。シオニストの攻勢に対するパレスチナの抵抗運動も組織的になっていましたが、英国などの国際世論にはパレスチナを分割して、両方の国家を建設する構想が浮上してきました。
【第二次世界大戦中のホロコーストの悲劇】
1941年12月11日、ナチス・ドイツのヒトラーは米国に対し宣戦布告を行いました。翌1942年1月12日にベルリンのヴァンセーで開かれた会議で、ユダヤ人絶滅方針を決定しました。(ユダヤ教徒のユダヤ人のみ、1千万人が対象)
このナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺戮をホロコーストといいます。この言葉はもとはユダヤ教神殿に捧げられる羊などの供物のことで、1978年に米国で放映されたナチスのユダヤ人迫害を描いたTVドラマの題名とされて広まりました。
ヒトラーは若いころオーストリアのウィーンで偏執的な人種優劣観の影響を受け、アーリア人種(ドイツ人)の優秀な血をユダヤ人から守るためと称してその民族的絶滅という極端な主張を『わが闘争』などの著作や巧みな演説で吹聴し、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの民衆の不満をそちらに向けていきました。ヒトラーの反ユダヤ主義は彼自身が多弁であったので、多岐にわたっていますが、特徴的な点は従来からのユダヤ資本の世界経済支配の野望という話に加え、共産主義をユダヤ思想と結びつけ、革命に対する有産階級の不安を搔き立てたところにあります。
ナチス・ドイツの組織的なユダヤ人排斥は権力掌握後、1935年のニュルンベルク法によって確定しました。その後、水晶の夜というユダヤ人排斥事件が起きます。
1938年11月9日から11日にドイツ全土でナチ党の指令で都市のユダヤ人のゲットー(ユダヤ人居住区)が襲撃され、破壊されるという事件が起きました。襲撃されたユダヤ人商店のガラスが散乱した様子から「水晶の夜」といわれました。襲撃の口実は、7日にユダヤ人青年によってパリの大使館員が銃撃され負傷したことでした。ナチス・ドイツのヒトラー政権は既に1935年9月にニュルンベルク法を制定し、ドイツ人の人種的優位と同時にユダヤ人を劣等民族と規定し、人種差別を合法化しており、その具体的な行使のチャンスを狙っていました。この事件によって国民の反ユダヤ人感情を刺激して支持を得るためと、政権の強権支配を印象づけるために、ヒトラーとゲッベルスの指令で行われました。
第二次世界大戦が始まると、ヒトラー政権はユダヤ人絶滅の方針を固め、ドイツ国内およびドイツ占領地域のユダヤ人を収容し、殺害する絶滅収容所としてアウシュヴィッツ収容所などを建設しました。こうしてユダヤ人問題の最終解決と称して、ガス室によるユダヤ人の大量殺戮(ホロコースト)が本格化しました。
戦争が終わるまでにゲットーや各地の強制収容所で餓死、射殺、ガス殺、その他の手段で殺されたユダヤ人の数は560万人から590万人に上ります。ユダヤ人以外にも、ドイツ人を含む精神障害者7万人の安楽死やロマ(ジプシー)約50万人も殺されています。
【イスラエル建国へ】
第二次世界大戦後、ヨーロッパにおけるナチス・ドイツのホロコーストが明らかにされると、ユダヤ人への同情が集まり、パレスチナへの帰還と国家建設は国際的な支援を受けるようになりました。
しかし、英国自身は委任統治に対するユダヤ人、パレスチナ人双方からの不満に対処することに次第に疲弊してきていました。そしてついにアトリー内閣が委任統治期間終了に伴い撤兵し、戦後の新たな紛争解決機関である国際連合にその解決を丸投げしました。
その結果、1947年の国際連合総会において、パレスチナ分割案勧告決議が成立しました。それはパレスチナの地を二分していましたが、両者の区域が混在する複雑な区分でした。ユダヤ人はそれを受け入れて、1948年5月14日にイスラエルという新国家を建設し、独立宣言を行いました。初代首相はベングリオン。イスラエルの建国は、19世紀後半に起こったシオニズムの帰結でした。
ユダヤ人は古代のパレスチナがローマの属州になって滅亡し、ユダヤ人が離散(ディアスポラ)してから約2000年を経て、ようやく民族の国家を再建したこととなり、そのことを旧約聖書の「出エジプト」(エクソダス)に喩えました。
しかし、その建国は複雑な問題の解決ではなく、新たな紛争の始まりとなっていきました。
続く