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戦後の金融体制を知る①ブレトンウッズ体制からペトロダラーの始まりまで

【戦前の世界経済崩壊の反省からブレトンウッズ会議へ】

1929年の世界恐慌に対し資本主義国はそれぞれ多様な対応をとり、英国のスターリングブロック経済圏(※1)、米国のニューディール政策(※2)日本の大東亜共栄圏などが出現しました。これらの閉鎖的・孤立的なブロック経済の利害は互いに対立して、それぞれが独善的な保護貿易に戻ってしまい、そのため国際金融・経済協力の基盤が破壊されて第二次世界大戦につながったことを反省し、国際連合の理念の下で戦後世界の平和維持と経済の安定を図る機構が構想されました。

※1スターリングブロック経済圏
1932年のオタワ会議によって英国がポンドの国際通貨性を維持するためにつくったポンドによる決済地域。カナダを除く英国自治領の他数カ国が参加したが、30年代以降の世界経済のブロック化に拍車をかけ、第二次世界大戦の経済的要因の一つとなったと言われている。

※2ニューディール政策
1933年以降、米国のフランクリン・ルーズベルト政権下で展開された一連の恐慌対策を指し、新規まき直しという意味の政策。大恐慌打開策及びそれに伴う諸改革の総称。第一期(1933年)には農業調整法、全国産業復興法などが成立。第二期(1935~39年)には政府の財政支出を中心とする経済の復興・安定策が推進された。

第二次世界大戦中の1944年7月、米国のニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで連合国44カ国の通貨担当者が集まって国際会議が開催されました。正式には連合国通貨金融会議と言います。この会議においてブレトンウッズ協定が締結され、それに基づいて1945年に国際通貨基金(IMF)協定と国際復興開発銀行(IBRD)協定(通称が世界銀行)が制定されました。なお、ソ連も代表団を派遣して、会議に参加し、協定に調印もしましたが、最終的には批准しませんでした。

この時、英国代表のケインズはバンコールを発行することを提案しました。

このケインズの構想をみておきましょう。

【ケインズのバンコールと米国のホワイト案】

ケインズが提案したバンコールの案は以下のようなものです。

①バンコール(Bancor)という国際銀行通貨を創出する。バンコールは金の一定分量で表示され、金はバンコールと交換されるが、バンコールは金に交換されないという双方交換性を断ったものである。金表示されるバンコールの価値は固定されるが変更は可能である。

②バンコールによって各国の平価は表示される。

③加盟国は清算同盟に勘定をおき、割当バンコール勘定を利用して多角的な決済を行う。加盟国の受け取りと支払いは、この勘定の貸方と借方の振替記帳により清算される。

④各国への割当額は世界貿易におけるシェアを基準として決定される。例えば、当初の割当額は戦前3年間の貿易平均額を基準にして決定され(例えばこの額の75%)、戦後5年経つと5年間の平均で決定するなどである。

⑤国際清算同盟は銀行原理によって国際流動性を供給しようとするものであった。すなわち信用創造を行うことができ、加盟国に対して当座貸越枠を提供し、その総額は約260億ドルにおよぶものであった。

⑥債権と債務が一方的に累積しないように債権国、債務国ともに一定の課金を支払う、いわば黒字国、赤字国両責任論の立場にあった。また平価の変更は債権と債務の一定の累積額に応じて具体的に示されていた。

⑦為替取引は自由に行われるが、資本移動の管理については各国に任されていた。

一方、通称ホワイト案とは、国際通貨基金(IMF)創設に関する米国側草案で、正式には「連合国国際安定基金案」と言います。当時の財務省顧問H.ホワイトの起草により1943年に公表されました。その基本的性格は、金本位制度の自動的な調節作用を、金の流出入ではなくて、安定基金という超国家的な機関の統制力で再現しようというものでした。

ブレトンウッズ会議(1944年)は、第二次世界大戦後の国際金融制度を設立するために開催された会議でした。この会議で議論された一つの重要な提案が、アメリカ合衆国のハリー・ダクソン・ホワイトによって提案された「ホワイト案」でした。

ホワイト案は、主に国際通貨安定の確保を目的としており、その中心的な構想は「固定相対為替レート制度」でした。以下は、ホワイト案の主な要点です:

①固定相対為替レート制度: ホワイトは、各国の通貨を金との固定相対為替レートに結びつける制度を提案しました。これは、通貨の価値が金に対して変動することなく、相対的な安定を保つことを意味していました。

②国際通貨基金(IMF)の創設: ホワイトは、国際通貨基金(IMF)の設立を提案しました。IMFは、加盟国が短期的な支払い不足に対処するための金融支援を提供し、国際通貨の安定を促進する役割を果たることとなりました。

③特別引出権(SDR)の導入: ホワイトは、新しい国際準備通貨として「特別引出権」(SDR)を導入する提案も行いました。SDRは、加盟国が必要に応じて使用できる一定の国際的な準備資産であり、金や米ドルといった単一の通貨に依存することなく、国際的な取引を行う手段となることが意図されていました。

④国際銀行復興開発(IBRD)の設立: ホワイト案は、国際銀行復興開発(IBRD)も創設することを提案しました。IBRDは、戦後の国際的な復興と開発を促進するために設立され、後に世界銀行グループの一部となりました。

1944年春のニューヨークでの専門家会議でこのホワイト案を基調とし、英国のケインズ案を加味したIMFの草案が作られ、ブレトンウッズ会議(連合国通貨金融会議)の討議を経て1944年7月IMFの創設が決定されました。

【ブレトンウッズ体制】

ブレトンウッズ体制にはいくつかの特徴があります。

1つ目はドルを基軸通貨として固定為替相場制です。

世界恐慌で株価が暴落した反省から、金兌換によって裏付けされた米ドルと各国の交換比率である為替相場を固定することで、為替の安定化を目指しました。(固定為替相場)

ブレトンウッズ体制では金1オンス=35ドルという為替相場を決め、株価の暴落を防ぎました。

二つ目はIMFとIBRDの設立が挙げられます。

IMFは国際通貨基金、IBRDは国際復興開発銀行です。ブレトンウッズ体制はこの2つの組織を中心として運営されました。IMFは通貨安定化のために資金を融資する役割がありました。IBRDは開発途上国の開発や戦後復興国に必要な資金を援助するという役割でした。

ブレトンウッズ体制下では、開発途上国や大戦で疲弊した国を支援したり、貿易を推進するといった経済政策を行いました。

三つ目はGATTです。GATT(General Agreement on Tariffs and Trade)とは、「関税と貿易に関する一般協定」を意味し、1947年に自由貿易を推進するために締結された協定です。

ブレトンウッズ体制は、世界経済を回復し安定させるために、各国の貿易を促進して経済を活性化することを目指していました。

そこで、1947年にGATTを締結し、経済協力体制を構築しました。GATTの理念は「無差別」であり、それには「最恵国待遇」と「内国民待遇」という2つの意味がありました。

最恵国待遇:加盟国に対して平等に貿易をすること
内国民待遇:輸入品と国産のものを平等に扱うこと

GATTでは、協定国内で軋轢が発生して貿易が停止することがないように「無差別」という理念を採り入れました。GATTは、後に世界貿易機関(WTO)に移行しました。

【ブレトンウッズ体制と米ドル基軸通貨体制】

ブレトンウッズ会議ではケインズ案は考慮されてはいるものの、ホワイト案が採用されました。もしも、ケインズ案によるバンコールが採用されていたら、現在の33兆ドルもの対外負債で繁栄する米国経済はなかったでしょう。

ホワイト案が採用された背景には、戦後の米国経済と軍事力が圧倒的であったことが要因であることは間違いありません。ケインズのバンコールの提案は、IMFのSDR(特別引出権)のように国際的なものでした。しかし、インドという巨大植民地を失いつつあり、戦後は経済の基盤が弱くなる英国の提案とみなされました。

ホワイト案を基にして成立した米ドル基軸通貨の体制ですが、一国の国民通貨を基軸通貨として使用する制度には問題点も指摘されていました。それがR.トリフィンの「流動性のジレンマ論」です。

基軸通貨国が国際流動性を供給するためには、国際収支が赤字でなければならず、しかし、赤字が続けばドルの信認は次第に失われていくという「金為替本位制」の矛盾点を論じたものでした。

具体的には国際貿易の拡大に応じて、国際流動性が米国(基軸通貨国)の国際収支赤字(米ドル流出)で供給される場合は、米ドル(基軸通貨)の信認が低下し、一方で米国が国際収支バランスを維持しようとすれば、国際流動性が不足し、世界経済の成長を阻害してしまうというものです。

<流動性ジレンマのポイント>
・世界経済の中で基軸通貨国が国際的な競争力を有していると、貿易黒字が発生して流動性供給が不十分となる。

・逆に基軸通貨国の経済力の低下に伴って競争力が低下し始めると、貿易赤字を通じて世界経済への流動性供給は十分に供給される一方で、基軸通貨国の信認の低下へと結びつき、結果として流動性は不安定化する。

1960年代になると、このジレンマが現実のものとなってきました。原因は国際的な外為銀行がドルを買ってきたからです。ドル基軸を支えてきたのは、ドルを超過して受け取る経常収支の黒字国による赤字通貨のドル買いでした。

ドル基軸通貨制の初期は金1オンス(31.1グラム)を35ドルと引き換えに交換できるとしました。これが一般にはドル金本位制と呼ばれます。

ソ連圏と中国には革命が起こって共産主義となり、戦後もユーラシア大陸の東西ではブロック経済は続きました。敗戦の日本、ドイツ、イタリアは一転して、金兌換のドルを基軸通貨とする西側につきました。資本主義内での国際通貨の選択肢は米ドルしかありませんでした。

1964年から米国は共産主義の南下を防ぐという名目の下、しかし実際には軍需産業の利益のためと思われるベトナム戦争を始めます。結果として政府の戦費支出が増加し、経常収支が赤字へと転落します。

1975年までの10年で1400億ドルの軍事費が増加しました。現在の金価格を元に換算してみると、35ドルが2000ドルになているわけですから57倍となり、約8兆ドル(1200兆円)に相当します。

戦費の支出からインフレになって一時は景気が良くなります。しかし、戦争のあとの国民に残るのは、過大な国債とインフレです。金価格を元に現在の価値に換算すると1200兆円となるベトナム戦費の増加のため、黒字だった財政と貿易がともに赤字になった米国は、国家の経常収支が赤字に転落しました。武器・弾薬と戦争物資の輸入が増えたからです。経常収支の赤字とは、米国から海外へのドルの支払い超過を意味します。

一方、戦後の貿易が米国とは逆に黒字になったドイツ、フランス、スイス、日本には外貨であるドルが貯まりました。日本以外のドイツ、フランス、スイス、そして英国は自国に入ってきたドルの価値が低下していると考え、FRBに対し価値が下がらない金1オンスと、価値が下がる35ドルの交換を要求しました。

米国のFRBは1971年までドルと金の交換を実行しました。しかし、1944年には3万トンあったFRBの金は西欧に流出し、1971年には8133トンに減ってしまっていました。

当時の大統領はニクソンでした。ニクソンは議会に「金委員会」を作って答申を求めました。そして、金員会は以下のように答申しました。

①金はドルの価値を保証している貴重な金属である。
②米国の金がなくなると、ドルの価値は暴落し、米国は困難に陥る。

1971年8月15日に、ニクソン大統領はテレビに出演し、自国の経済収支の赤字拡大に対処する競争力回復のための「新経済政策」の一環として、ドルと金の交換を停止すると発表しました。

同時に米国へのすべての輸入に10%の輸入課徴金を課しました。いずれも、各国通貨、特に円や西ドイツ・マルクの切り上げを目指すものでした。声明発表直後から各国の外国為替市場では一斉にドルが売られ、各国当局は事実上の変動相場で急場をしのぐことになりました。

その後、G10の財務大臣・中央銀行総裁会合を中心に固定相場制への復帰の方法が模索され、1971年12月には、ワシントンのスミソニアン博物館で開催されたG10において、円やマルクなどをドルに対して切り上げ(円は1ドル308円に切り上げ)、各国通貨の対ドルの変動幅を上下1%から2.25%に拡大する新たな固定相場制が合意されました(スミソニアン体制)。

しかし、2年間のスミソニアン体制の間、世界の金市場で金価格の上昇が止まらず、FRBからはドルとの交換による金の流出が続きました。そして、1973年に金1オンス38ドルとして、ドルを8%切り下げただけのスミソニアン体制は、FRBの外にある市場での金価格上昇のため崩壊しました。

ドルと金との関係がここに切れました。金融理論では米国が金をデフォルトしたことになりますが、これをデフォルトとは言われません。しかし、金兌換通貨では、金と通貨を交換できなくなった時がデフォルトです。そのため、実際はデフォルトでした。

金という価値の元を失った世界の通貨は固定相場制から、お互いのレートが日々の通貨の売買で動く変動相場制へと移行しました。

【ペトロダラーの通貨システム】

国際通貨は1944年から1971年のブレトンウッズ体制のドル以前は金でした。金の裏付けのない信用通貨での変動相場制は5000年の世界の歴史の中で初めてのことです。

変動相場への移行は、金との関係が切れた信用通貨のドルが価値の安定した基軸ではなくなったことを意味します。基軸通貨はキー・カレンシー、つまり価値の固定軸になる通貨である必要があります。

しかし、米国はドルが金と無関係な信用通貨になっても、ドル基軸通貨のシステムが独占的にもたらす国益を失いたくはありませんでした。

金ドル交換停止のあと、変動相場制となったドルは基軸通貨の地位を保つことができるのかという難問がのしかかりました。その難問への解を与え、その後も繁栄する米国を支えたのがペトロダラーでした。ニクソン政権下で国務長官であったキッシンジャーは金の価値の裏付けがなくてもドルが基軸通貨を続ける手段を考え、それを実行しました。

産油国のリーダーは最も多く原油を輸出するサウジアラビアであり、国家元首はファイサル国王でした。キッシンジャーはサウジに出かけ、当時の産油国のリーダー・ファイサル(石油の担当はヤマニ石油相)に以下の提案をしました。

・サウジアラビア(つまり同国の石油基幹設備)を米国は防衛すると約束した。そして、サウジが希望すればどんな兵器も売ると約束した。

・イスラエルからの攻撃だけではなく、他のアラブ諸国(たとえばイラン)などの脅威からも守ると伝えた。

・サウジ王家を未来永劫にわたって保護することも確約した。

特に最後の約束はサウジアラビア王家にとっては魅力的でした。そして、アメリカはその見返りに二つのことを要求したのです。

・サウジアラビアの石油販売はすべてドル建てにすること

・貿易黒字部分で米国財務省証券を購入すること

ファイサル国王はキッシンジャーの提案を受け入れ、他の産油国もサウジに従いました。当時の米軍の力は圧倒的でした。ペトロダラーシステムは米国とサウジの王家の密約(ワシントン・リヤド密約)で生まれ、条約の内容が公開されることはありませんでしたが、世界は察知しました。

キッシンジャーは金に代わって石油を担保にするドルにしたのです。ドル紙幣そのものは何も変わりません。しかし、この1974年にドルの価値を保証するものが金から石油に変わったのです。

米国の信用通貨のドルが原油の通貨ペトロダラーになり、どうなったのか。

①原油と資源は米ドルでしか買うことができない。
②米国以外の国が米ドルを得るには経常収支を黒字にして、ドルの外貨準備を貯めておかねばならない。
③ドルを外貨準備として貯めることは、輸出で得たドル全部を輸入に使わず、米銀またはFRBに預金するか、米国債を買うことになる。

米国は1960年代から経常収支が赤字で、日欧(特に日本とドイツ)の先進国と中国、東南アジア含む海外に60年以上ドルを超過払いしています。もし、海外に渡ったドルが売られれば、ドルは下落を続け、通貨信用を失います。基軸通貨の役割からは落ち、米国の特権的な国益はなくなります。

しかし、原油の輸入支払いが目的の外貨準備のまま米銀とFRBに預金されれば、海外に出たドルは売られず、米国の銀行に還流します。海外が持つ外貨準備のドルは米銀に預金されます。この仕組みがペトロダラーシステムであり、米ドルが基軸通貨に地位を保った理由です。

金ドル交換停止のあと、1974年からの米ドルはペトロダラーとして世界の基軸通貨を続けました。原油以外のエネルギーと金属資源、穀物も原油にならってドルで売られ続けています。

続く


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宮野宏樹(Hiroki Miyano)@View the world
自分が関心があることを多くの人にもシェアすることで、より広く世の中を動きを知っていただきたいと思い、執筆しております。もし、よろしければ、サポートお願いします!サポートしていただいたものは、より記事の質を上げるために使わせていただきますm(__)m