今は亡き、大正9年生まれで、ガダルカナル、ミンダナオ等の激戦地に出征し、戦い、生きて帰ってこられた方から戦争の話を沢山聞かせていただいた。
戦争はいかん。戦争は酷い。そう話されていた。
フィリピンのミンダナオでは、激しい雨が降ると、水が激しく流れ、川のようになるとのこと。しかし、水かさはせいぜい脛のあたり。
そこを渡るのに、兵隊は皆、手をつなぎ進む。しかし、何も食べていない、靴もない、精も根も尽き果てた兵隊は転ぶそうだ。
「助けるなー、助けたらいかんぞー」
と、上官が叫ぶ。
なぜ助けたら駄目なのか。それは、助けた者も巻き込まれて転ぶからだ。そして、転ぶと立ち上がることはできず、脛くらいの水かさで溺れ死ぬ。立ち上がる力はなくなっているのだそうだ。
何も食べるものがなかった。立ち上がる力もなかった。
みんな死んだ。本当にみんな死んでしまった、そう話されて、いつも涙されていた。
一方で、日本の兵隊は強い、とも言っておられた。
アジアやアフリカの人々で日本だけが白人と戦った。戦争はいかんが、日本人は強かった。日本人は日本のことだけを考えていたわけではなかった、とも話されていた。
お国の為に戦った英霊を悪く言ってほしくない。みんな怖かった。でも、お国の為に戦ったのだから。悪くは言ってほしくない、と。
戦前の日本は何が良かったか、そう問うたとき、こんな答えが返ってきた。
互譲の精神。
今と比べると貧しかった。けれど、譲り合いの精神があった。みんなが、どうぞ、どうぞと譲り合う。
我が我が、というのはなかった、そうおっしゃっていた。
もし、今、世界に「互譲の精神」があったらどうだろうか。
今の世界の争いの中に、根本的には不足感があるように思う。
足りないから欲しい。もっと欲しい。もっともっと欲しい。
互譲の精神には、満足と感謝がある気がする。
物理的には貧しいのかもしれない。しかし、精神的には満たされているからこそ、譲ることができる。今に感謝があるから、譲ることができる。
満たすべきは心であり、モノではないのではないだろうか。
モノの満足には際限がない。
けれど、心の満足は、今、心の持ち方一つでできる。
あまりにも貧困であれば、それは難しいだろう。世界を見渡すと、その貧困では、譲る気持ちよりも貧しさから抜け出したいと思って当たり前だと感じる人々がいる。
しかし、日本人の多くは、それに比べると満たされている。不足と言っては申し訳ない。
互譲の精神を先進国と呼ばれる国の人が持ったらどうだろうか。
極限を体験した人が、戦前の日本の良さを問われた時に出てきた言葉。そこには重みも深みもあった。
これは理想論ではなく、今からでも自分の心次第で持てる精神だ。
一人一人が互譲の精神を持てば、紛争は解決されると思う。