夏は涸れ秋が滴る、暑中見舞いは自分に向けたい
意図的にそうしているわけではないのですが季節の苛烈さが落ち着きを取り戻し始めた頃にふと、したためている気がします。1限目は国語だと嬉しい季節から昼休み前4限目の体育がちょうどいい季節へ変わっていく気がしますね、お久しぶりですこんにちはこんばんは。この夏は少し落ち着いた文章です。
人生で一度は見ておきたいものがいくつかあり氷瀑などはその一つなのですが、惹かれている理由は言語化できないのです。もしエネルギーの源に近づきたい一心であれば翼はいつか凍ってしまうでしょうか、落ちる先にビスケットの家があり屋根がマシュマロであることを祈ります。
最近この見ておきたいものに新加入の冬の海。夏の海というのは夏の季語で冬の海というのは冬の季語で、どちらも俳句の露払いもしんがりも務めうる、それはそれは笑顔が似合う柔和な方々です。ですが最近ふと訪れた夏の海で感じた、夜の海は暗く黒く、ここに生命の躍動などはないような感じ。暖かい風と少し冷たい風が順々に訪れ太陽は隠れ涼しいはずがべたつく感覚、星よりも明るく動的な灯台の光、それでもきっと道しるべのない真っ暗な海、飲み込まれたら引き返せない感覚は恐ろしく心地よく、昼確かにそこにあったであろうエネルギーはどこへ行ってしまったのかと。
いつからか夏を燃やせるだけの燃料を心の中に持ち合わせていないので、春から夏は情熱だとか気力だとかのあるべき内側からの熱の足りない分を、
ときに友に与えられときにどこかからもぎ取ってきた新鮮な薪で日々補い、大切にその火を守る季節でした。てにをは☆プロメテウス☆未来館です。こうも鬱々と文句を垂れていますが最近の夏は比較的好きです。秋が恋しいように見えますが恋慕の情など欠片も見当たらず、毎年やけに暑いこの季節の一面に対する小さな反骨精神をクジェンガしているにすぎません。
生来人を描くのがかなり苦手で人の名前を覚えるのもやや不得手なのですが、魂の輪郭を掴むのが苦手なのかもしれません。顔の凹凸やパーツの位置はおろか、ほくろがあるかどうか、眼鏡をかけているかどうかも朧気で、性格や精神的特徴が見える情報となかなか一致しないのは日々自分のことで精一杯だからと言い訳を添えています。古代ギリシャでほくろがオリーブと言われ位置によってその意味を変えたという記憶の底でほんのり香る話の真偽を確かめる術がすぐに見当たらないのは、今の生活の少し悲しいところですね。
ふもとの村の太鼓と笛の音で釣られたい、腹を空かせて山を下りうす焦げた馥郁たる匂いの出所を木陰から見守りたい、突然の大雨に戸惑い帰る人々を見て心躍り洞穴に戻った後自分の寂しさに気づいて陰りたい、人はみな心の中にバケモノを飼っているとはこういうことでしょうね。祭りにも落語にも囃子があるのが羨ましい、どうも独り言が多くなってきました。
渦巻く希死念慮の波に合わせて、嫌いなものが多いなと感じます。雨の日の屋根付きの外階段も陽が照り付けるアスファルトの駐車場もストラックアウトも山芋のとろろも、助手席やセミダブルベッドや段ボールいっぱいのみかんのようにいつか克服できたらなと。スズメバチには一度刺されているのでリーチではあるのですが嫌いなものとは違います、汚れを吸ったスポンジもタンス裏の綿ぼこりも違うのです。
嫌なことを胃の中で壺に詰め入れてできた蟲毒に、日々あった楽しいことでできたビーズを香りが残っているうちに投げ入れています。この壺を浮かすのに水はちょうど良いのです、周りの力に任せて揺蕩い浮力に任せて力を抜くと身体は楽なのです。魂の輪郭も毒に耐えうる土器も心の中のバケモノも全て何かをこねて作っていて、これらを火にかけて形と成さねばならぬもののどうにも不格好で不定形で、日々朽ちないことを祈っています。せめていずれは自我が根を張り綺麗なクリスマスローズが咲きますように。