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まだ「青い鳥」を探していた新人の僕が、大学発スタートアップ投資と運命的な出会いをするまでの話

今回は、僕がアカデミアへの強い想いを抱くきっかけとなった、新卒入社したジャフコでの原体験を話していこうと思う。

僕は現在、自分が創業したディープテック領域に特化した独立系ベンチャーキャピタル(VC)のBeyond Next Ventures株式会社の代表取締役社長を務めている。

創業から10年が経ち、総額約480億円規模のファンド資金を投資家の方々からお預かりし、これまで数多くの大学発スタートアップを支援してきた。

ちょうど10年前の2014年7月、新卒で入社してから約11年間お世話になった株式会社ジャフコ(現・ジャフコ グループ株式会社)を退職し、独立の道を選んだ。当時は気付かなかったが、独立してから、自分は本当に運に恵まれていたと思うこともあり、少し当時を振り返ってみようと思う。


最初はベンチャーキャピタルにまったく向いていないと思っていた

2003年4月、もともと「何かの事業で将来独立するぞ」と意気込んでジャフコに入社したものの、最初は全く使いモノにならなかった。経営者とまともに話せないし、電話でアポを取るのもつらい……。

入社後の数年間は「入る会社を間違えた」とずっと思い悩み続けていた。もっと楽に働ける会社を選べば良かったと、何度も後悔した。

ある日の、投資先企業の社長との別れ際。会釈をしたら、「伊藤くん、後頭部に十円ハゲができているよ」と言われた。ストレスを抱えていることに自分でさえ気づいていなかった。そのことを他人から指摘されて、さらにつらかった。

しかし当時の直属の上司は、そんなダメダメな僕でも、丁寧に丁寧に仕事を教えてくれた。本当に親身になって、一緒に投資検討先や投資先の企業に同行してくれた。メンタルが弱って、テンパって、キョドっていた自分を見て、「伊藤、大丈夫か?」と時折優しく声を掛けてくれた。僕は大学で選んだ道を後悔していたので、人生を変えるつもりでジャフコに入ったのに、もっとしんどい状況が待ってた。戻る場所も居場所もなく、本当につらかった。

その上司は交渉がとても上手だった。コツを聞くと、「交渉する時は事前にシナリオをいくつか用意しておくんだ」と言う。相手が何を言うのか想像して、あらかじめいくつかパターンを頭の中で用意しておく。交渉のときはいつも狙い通りの着地点に収めていて、「この人はスゴい」と思った。憧れた。

僕がつらい思いをしたときの逃げ場は、いつも決まって本屋さんだった。時間ができれば本屋さんへ行き、ビジネス書を買い漁った。人と話すことに苦手意識のあった僕は、特に「話し方の本」をたくさん読んだ。実家に帰った際に本棚を見ると、同じように、話し方の本がいくつか並べてあった。話すのが苦手なのは父親譲りだった。

つらいときにいつも念じていたのは「良い仕事をしよう」だった。ダメな自分に向き合うと、どんどん深みにハマる。だから前向きな気持ちになるよう、「良い仕事をしよう」を念じ続けて、ドツボにハマらないよう工夫した。

そんな僕もだんだん仕事を覚えて、良い会社を見つけては興奮気味に上司に報告し、次第に、見つけてきた会社へ自分の手で投資ができるようになっていった。しかし投資委員会向けの資料作成はいつも億劫で、資料を提出する締切の週はいつも会社に泊まり込みをして、徹夜で書類を書き上げていた。会議室に並べられた椅子の上で寝てしまったまま朝を迎えたことが何度もあった。

そんな経験を経て、徐々に仕事の手応えを感じるようになっていった。ちなみに当時、自分がシード段階で投資をして上場を果たした企業に、貸会議室最大手となった株式会社ティーケーピーなどがある。

しかしその一方で、「自分が心底やりたいことを選ばないとダメだ」と大学生のときに気付いた僕は、理想の「青い鳥」をまだ探し続けていた。

大学発スタートアップチームへ、不本意な人事異動

入社から5年目が終わるころに突如辞令が出て、「産学連携チーム」へ異動することになった。しかも僕は、その部門を率いるリーダーに抜擢された。小学生のときに遠足の班長をやっても、中学生のときにサッカー部の部長をやっても、「自分はまったくリーダーには向いていない」と思っていた僕は、苦手意識のあったリーダーになるのが怖かった。

先述の元上司からは、「部を潰すか、若手に任せるか。経営陣で話し合って、伊藤を抜擢することにした」と。当時の社長もわざわざ僕の席まで来て、「好きなようにやって良いからな」と声を掛けてくれた。

しかし2000年代後半の当時は、インターネットサービス全盛期。僕は、KDDIさんと提携する前の未上場のGREEさんを発掘し、投資委員会まで通していた(しかし結局、残念ながら投資には至らなかったが、のちのご縁につながる)。

その直後の異動だった。

インターネット業界への投資に自信を持ち始めていた僕は、正直、「飛ばされた」と思った。ジャフコの大学発・産学連携投資は、当時の時代背景やタイミングなどもあり、まだ目立った成果がなかった。当時の僕から見ると、前任者には大変失礼な言い方ながらも、ジャフコにとってお荷物状態に映っていた。

もちろん、過去10年近い産学連携投資の取り組みがあってこその僕の大抜擢ポジションだったことは言うまでもない。前任者の皆さんに対し、敬意と感謝の気持ちを持っていることは、念のために書き記しておく。

しかし当時の僕には、花形部門から、難しくて苦労している部署に飛ばされたように感じた。「なぜ?」と思った。それでも僕は、やるしかなかった。まだ自分の「青い鳥」が見つかっていなかったからだ。

入社以来ずっとしんどかったけど、目の前の仕事をしっかりやり続ければ、何とか結果が出る。そのことを経験していた僕は、ちゃんと向き合うことにした。好きにやって良いのであれば、好きにやってやろうと、思った。

狼煙をぶち上げた

部の方針を説明する全社会議で、僕は経済産業省が毎年レポートとして出している「大学発ベンチャーの統計のグラフ」を示し、「大学発ベンチャーは右肩上がりに増えていて、VC業界の中では数少ない成長領域である」と声高に主張し、狼煙(のろし)をぶち上げた。

設立社数の累計グラフなので、右肩上がりは当然。「誰かに突っ込まれるかも」と身構えつつ、自分たちのチームだけは成長市場にいると思い込みたかった。

当時、初回投資をした直後のCYBERDYNEと、投資前だったSpiberを取り上げて、「大学にはこんな面白い会社がある」と全社に向けて苦し紛れにアピールしたものの、内心は、「本当にできるだろうか」と不安だった。

敬愛してやまないCYBERDYNEの山海社長と、Spiberの関山社長のツーショット

当時はリーマンショック後、ジャフコも厳しい状況が続いていた。その前後で、同期の数人が立て続けに退職していった。「もうこの泥舟には乗っていられない」と言って去った仲間もいた。自分が選んだ会社がそう思われるのは悲しかった。

だから、会社を変えてやろうと決意した。
ここから、僕の運命は大きく変わっていくことになる。


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