虐待の構造
虐待の構造
「親は子をしつけなければならない」等のおよそ当たり前と言われる概念により「子のため」「よかれ」を実行する時起きているのは、親子間の精神的な断絶、からの子の想いや世界観を否定する価値観の押し付け。先人として遠回りや失敗が無いように教えることが、美徳とされる。
人は精神的な断絶が起きているところに信頼を置くことは難しい。自分の想いや世界観を知らずに、価値観を押し付けてくることに違和感を覚えるが、脅迫とも言える対応に言葉を無くすことは必然。親と子は、想いも世界観も違う全く別の人格として、お腹に宿るものだから当然。
上からの視線で接することで「しつけ」は達成する。少し方向性を間違えただけで親の特性により、殴る蹴る、呪いの言葉、性奴隷、放置、学業や宗教・スポーツ・音楽等の強制、「お前のため」「よかれ」発動。
自覚がなくとも洗脳しようとしている時に、その想像をすることは、親として「しつけ」をすることを放棄することと考える。そんなことはできない。親としての世間の評価は、非常に厳しいものだから。「しつけをしない親」とレッテルを貼られることに恐怖する。
人前で言うことを聞かない子にゲンコツして「しつけしてるんだけどね」アピール。電車等の密室で子どもが暴れたり鳴き声がうるさいと感じれば「親のしつけがなってない」と怒鳴りつける。親としての評価を大切にさせる風潮。
一生懸命しつけをしているのに、子が言うことを聞かない。泣き続ける。黙り続ける。思い通りにならない。勝手なことをする。何を考えているかわからない。家庭内暴力暴言。自傷他害。その本質を見ずに、更に親としての価値観をかぶせる。それでも子の問題行動はおさまらない。
しつけはしているから、子がこうなるのは全くの自己責任、親の責任ではない、と考える。いじめ/家出/不登校ひきこもり/精神疾患・障害/人格障害/サイコパス/依存症/窃盗/殺人/その他様々な問題行動とも取れる行動は、その本人の特性であるのが基本にする。
子の個を大切にと考え行動する大人の不在。
親の想い
迷惑をかけない子になって欲しい。
親も子も自覚できない「迷惑」を親が子に押し付け続けることから、子は何を学ぶか。
良い学校に入り、良い会社に入り、安定の老後に。
「今」を生きる、実は全く別の「想いも世界観」もある自分が納得できる術を教えられないまま、概念だけを押し付けられることから、子は何を得られるか。
人の役に立つ子になって欲しい。
自分はさておき、誰かのためになることが良いことだけを教えることでの弊害。
反面教師。
自分はできなかったことを子に押し付けても、できなかったことは方法も考え方も教えることはできないままでの「自分で考えろ」という放置。
共通するもの
「愛」の定義があやふやなまま、およそこうであろうだけで真剣に向き合おうとする怖さ。想像力を使わずに手持ちの価値観だけで子育てする怖さ。があるのにも関わらず、親が自分の責任だけで子を育てることを押し付ける社会通念。法律。自己肯定感はもちろん、自己有能感や尊厳さえも失わせた結果、こちらが問題行動とも取れる行動をするのを、自己責任として負わせ、処分しようとする。
子育ては親目線では難しい。
子どものことは全部わかっている、は幻想。かつて、一体だったからといって、何もかも同じではない。子どもは教えないと何もわからない、は無い。甘やかす/厳しく育てる、という上下関係の意識がある世界に多様性は尊重されない。他人を一人の人間としての尊重するとは、自分を尊重するとは、を教えないと、子は自分の未来像、日本の未来像を持つことも難しい。
子に未来を託したいなら
まず先に、一つの目の前の事象についての、発達年齢に合わせて、子の想いや世界観を一つ一つ丁寧に聴こう。否定非難せず、決め付けず、先回りせず、あからさまに価値観を出さず、とにかくニーズを聴いて一緒に考えやって、一緒に成長していこう。
共感と承認。
そして命に関するところは特に丁寧に話し合ってみよう。誰にも邪魔されない自分軸が育ち、他人との距離感、コミュニケーション能力、物事の問題点を見極め、問題解決能力が育っていきます。
それは発達障害があってもなくても。
定型の私が被虐待児として育ち、発達障害の我が子に向き合い、専門的な学びから得たものです。詳細には触れていませんが、何かを感じていただけたら幸いです。