子どもに体験を与えたい
Xで流れてきた、この一連のポスト。
何気なく読み始めたけど、なかなかの衝撃だったので、長文なのだが改めてnoteにまとめられたものも紹介したい。
内容をざっくりとまとめてみる。
子どもにまつわる話だ。
読んで私がすぐに思ったのは「知育おもちゃってそういう効果があったのか……!!」だった。笑
0歳〜3歳くらいで売られているおもちゃには「知育用」とか「知育にぴったり」みたいな売り文句がついていることが多い。(※4歳以上がどうなのかはまだ見る機会がないので知らない)
それ基準で選んだことはないけど、なるほど子どもの発達に必要ないろいろが「知育」なんだと、これを読んで腑に落ちたのだ。
たとえば、丸い形にあわせてシールを貼るとか、新聞紙をぐしゃぐしゃにするとか、はさみで切るとか、色や長さで分けるとか、ぜんぶ発達の上で意味がある。
こう書き出すと、おもちゃじゃなくても家でかんたんにできることばかりだと気づく。
以前、私は「欲しいものを与えることの是非」というnoteを書いた。
しかしこれを書いたあと、自分でもモヤモヤしたものが残った。
で、今回のnoteを読んで、「モノより体験を与えるほうが絶対大事だわ」と再確認できた気がする。
そこで、もうひとつポストを紹介。
(さっきのからしたら全然短いんだけど、読むと泣いちゃう。。)
シングルマザーには余計に響くわ。
これのなにが刺さったかって、自分もそうだったことを思い出したから。
うちは幸い両親揃っていたし、よくお出かけに連れてってもらったし、私は父親っ子で特によく遊んでももらった。
だから状況的には全然違うんだけど、あとから「一番の幸せだった」と思い出すことって、話したことや一緒に過ごしたこと、その時間そのものなんだよね。
振り返ると、自分はどうか?
イヤイヤ期の娘といるのがつらくて、おもちゃを与えることで娘から逃げていただけじゃないか。
おもちゃを与えていたのは、親の自己満足だった。
娘は全身で「ママ」を求めていた。
ママが朝活してて布団にいないと、「ママがいなくて寂しかったの」と起きてくる。
「ママと話したい」「ママと遊びたい」「ママに見てほしい」「ママに触っていたい」それらの欲求をぜんぶぶつけてくる。
今なら受け止められるが、イヤイヤ期のときにはできなかった。
話を戻すと、やはり、子どもにはたくさんの経験を与えたいと思った。
自分も子どものころは、好きなことやりたいことを何でもやらせてもらった。
それらの経験が自信になったり、嫌いなことや苦手なことがわかったり、時には挫折したり、反対に自分だけが輝ける場所を知ったりした。
絵本が大好きな娘にたくさん読み聞かせ、1ページめくるごとにこっちが読む以上にあれこれ口を挟まれても聞き続けていたら、日がな一日中しゃべる子になったし、
歌が大好きな娘に童謡やおうた絵本を聞かせ、お風呂や寝る前や散歩などあらゆる場面で歌っていたら、日がな一日中オリジナルソングを歌い続ける子になった。
ママが台所に立つたび、台を持ってきて横にちょんと立ち「あれはなーに?」「これはなーに?」「◎◎ちゃんが混ぜ混ぜする!」と言う娘は、料理好きになるだろうし、
洗濯物畳みにも、洗濯物干しにも、クイックルワイパーがけにも、何でも参加したがり、「お風呂行こう」といえば進んでおもちゃを片付けだす娘はきっと、身のまわりのことを自分でできる子になるだろう。
経験をあげられる、そのこと自体が幸福なことだと思う。
虐待された子、育児放棄された子などは、触れ合いや体験の機会を奪われてしまうだろう。
振り返れば、そうと意識せずとも、私は娘と毎週末でかけているし、子どもの遊び場や公園にもほぼ毎週行っている。
おかげで?娘もお出かけ大好き、黙っていれば「お出かけしよー!」と言ってくる子になった。
図書館には娘が生まれた頃から通い、最近では娘は絵だけ見て知らない絵本でも一人で楽しむという奇技を習得、何時間でも絵本を眺めている子になった。
ちなみに3歳になる前に50音は覚え、読める。今ではカタカナも。だからひらがなだけの簡単な絵本なら、3歳にして声に出しながら読んでたりしてびっくりする。
そう、振り返れば、私はそれなりに「体験」をあげられていたんじゃないか?と思ったのだ。
おもちゃに頼ってしまった時期も、確かにあったけれど。そして、おもちゃのすべてが害悪ではないけれど。
これからもたくさんのもの、ことに触れて、体験して、感じて、大きくなれ。
生きた「知育」に学びながら。
そして母も、あなたと一緒に学びつづけよう。
一緒に、たくさんのことを経験しよう。
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