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”才能が無い”という言葉は悲鳴である

”才能が無い”という言葉がある。

 あらゆる時代あらゆる場所で散々擦り倒された言葉であり、私自身100万回は使ってきたし今後も使い続ける予定である。
この言葉自体は賛否両論あって、「甘えだ」「努力不足だ」「言い訳だ」と批判されている様も度々目にしている。
私は才能が無い側だし、この言葉にもこの言葉を使う人にも肯定的だ。
何故ならこの言葉は”悲鳴”だからだ


 絵だろうが音楽だろうが文章だろうがゲームだろうがジャンル問わず使われているが、この場では『ストリートファイター6』を挙げて話をしたい。
またあくまでも実体験に基づく持論であり、決して一般論として書いているわけではない


 そもそも”才能が無い”という言葉はどの段階で出てくるのか。
スト6で数日前”不知火舞”が実装された、私はこのキャラが大好きなので意気揚々と使い始めたわけだがまぁ上手くいかない。
そりゃあそうだ、ただでさえ下手くそなのに実装されて1日やそこらで手足のように動かせるわけがない。
この段階は全然構わない、コンボはやっていれば慣れて安定することは経験上わかっているし
立ち回りも「こういう試合運びをすればいいんだな」ということを理解できれば、まぁそれなりに形にはなってくる。
舞が来る前になんとなく使用していたリュウがそんな具合で手に馴染んだので、単に練度の問題だ。

 問題はこの先である、ある程度いろいろと馴染んで一通り動かせるようになった先。
”自分が悪いのはわかるが何をどう直せばいいかわからない”の段階に来た時に痛感する、私には才能が無い。
答えのあることはできる、だが答えがわからないことはどうしようもない。
調べても出てくることは「コンボを安定させよう」「対空を頑張ろう」ぐらいなものだ、そんなことは最初からわかっている。
(これが仕方のないこともわかる、ちゃんとプレイを見ないことには正確なアドバイスなどできないから)。
「とにかく自分が悪いことはわかるが具体的なことはわからない、もうどうしようもないんだ」
という悲痛な叫びが”才能が無い”という言葉に籠っている


 とはいえ、個人的にはこの言葉が出る間はまだ健全な状態だと思っている。
何故なら自責の言葉だからだ、シッカリと”自分が悪い”という事実には向き合っている。
むしろ他責に走って罵詈雑言を吐かないことは十分立派であるとすら思える(もちろん1番立派なのは弱音すら吐かず黙々と上を目指す者達だが)。
そんな相手を「甘えだ」「努力不足だ」「言い訳だ」と批判するのは、私には溺れて藻掻いている人を棒で叩くような行為に見えてならない。


 そして今日も私はインターネットに溢れる「舞出たのでとりあえずマスターまで行きましたw」みたいな、才ある者達の投稿を見ては勝手に傷ついている。
でも自分にはどうすればいいかわからない。
辛いし、苦しいし、もう折れかけていて、せめて悲鳴ぐらいあげさせてほしい。
ただひたすらに泣き叫ぶ、私には才能が無い。

 そしてどうか、同じく鳴いている人を見かけた時は
「あの人は藻掻いているんだ」と思ってあげてほしい。

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