Amazing Grace(2)

図1 アリー・シェファー 画 キリストの誘惑

前回の投稿の最後で、ジョンが見た夢について書きました。

その夢の内容については、参考文献からそのまま以下に引用したいと思います。

『私の夢の世界に浮かんできた場面は到着して間もないヴェニスの港でした。夜、私が甲板で見張りをしているときだったと思います。一人で前後を行き来していると、どこから来たかは覚えていないのですが、一人の人物が近づいてきて、私に指輪をくれ、そして明白な説教口調で、注意深く保管しておきなさい、と言いました。彼は、その指輪を私が持っている限りは、幸福になり、成功するだろうが、それを失くしたり、手放したりするなら、必ずや苦難と災いに見舞われるだろうと、断言しました。私は、その指輪をこれから注意深く保管するようになることをまったく疑いもせず、また自分の幸福を掌中に収められることに大いに満足して、進んでその贈り物を受領し、条件にも従うことにしたのです。

こうした考えに耽っていると、第二の人物が接近してきて、指にはめている私の指輪を見、この機をとらえて、指輪についていくつか質問してきたのです。私は即座に指輪の効用を説明しましたが、彼の返事は、指輪からそのような効果を期待する私の弱さに驚きを示すものでした。その人物は多少時間をかけて、そういうことはありえないと言って聞かせ、最後には直接的な言葉で、指輪を投げ捨てるよう、私に強く促しました。最初はこの提案に衝撃を受けましたが、やがて彼の懐柔策は効を奏しました。私は自分自身を説き伏せ、疑い始めたのです。そして、とうとう指輪を指からはずして、舷側越しに海に投げ捨てました。指輪が海面に触れるのと同じ瞬間に、恐ろしい火が、ヴェニスの町の背後、やや離れていたところに現れていたアルプス山脈の一部から、吹き出すのが目に入りました。まるで眠りから目覚めたかのように、山々がはっきりと目に入り、すべてが炎に包まれていました。

私は自分の愚かさに気づきましたが、手遅れでした。そして私を誘惑した人物は、軽蔑の表情を浮かべながら、こう言ったのです。私のために取ってある神の慈悲のすべてが、あの指輪に入っていたが、お前はそれを進んで投げ捨ててしまった、と。私は、誘惑者とともに、今すぐに燃え上がっている山々に行かなければならないこと、そして私の目に映っている炎はすべて私のせいで燃え上がったことを理解しました。私は、体を震わせ、もがき苦しんでいました。夢から目が覚めないのが不思議でしたが、夢はその後も続きました。私は、自分は追い詰められてもうすぐ死ぬのではないかと思いましたが、命乞いをすることもなく、希望もなく、自分を非難しながら立っていると、突然、三番目の人物か、あるいは最初に指輪をもってきた人物か、そのいずれかの人物(そのどちらかは定かではありませんが)が、私に近づいてきて、私の悲しみの原因を問いただしたのです。私はこの人物に、真実を包み隠さず述べ、進んで自己破滅的な行為に及んだこと、自分はまったく同情に値しないことを告白しました。彼は、私の性急さを非難し、もう一度指輪を手にしたら、もっと賢くなれるかどうかたずねました。私は、事態は取り返しのつかないところまできてしまったと考えたので、この質問にはほとんど答えることができませんでした。さらに、この予期せざる友人は、私が返答する間のないうちに、私が指輪を投げ捨てたちょうどその辺りの海中にもぐって行ったと思います。そして、間もなく、指輪を持って戻ってきました。

彼が乗船するとすぐに、燃え盛る山火事はおさまり、誘惑者は私のもとを去りました。こうして、「奪われた物が勇士から取り戻され、罪のないとりこたちが助け出された」(イザヤ書49・24)のです。私の不安は終わり、喜びと感謝の気持ちを抱きながら、私は、指輪をもう一度受け取るために、親切な救出者に近づいて行きました。ところが、彼は指輪を返還することを拒み、次のような趣旨のことを言いました。「お前には指輪を保管することができないから、もう一度この指輪をお前に預けると、すぐに同じ苦境に陥るであろう。しかし、お前のために私が取っておくことはできるから、そうすることにしよう。必要になったらいつでも、お前のために差し出してあげよう」、と。』(引用ここまで)

ジョンに指輪を与えてくれた第一の人物(または第三の人物)を、ジョンは主イエス・キリストだと認識しています。
そして、そのジョンに指輪を捨てるよう、言葉巧みに誘導していったのはサタンでしょう。

ジョンが見た夢でわかる通り、神様は私たちが幸せに生きられるように、常に守ってくださろうとします。
しかし、サタンは私たち人間のことを心の底から憎んでおり、私たちが不幸になるように、あらゆる手段を使ってきます。

ジョンが主から指輪を授けられたのを知ったサタンは、その指輪を奪い取るため、ジョンを言葉巧みに説き伏せ、自ら指輪を投げ捨てるように仕向けていきます。
サタンはこのように、夢で直接語りかけてくることもあれば、身近にいる誰かに乗り移り、その人を通して工作したりもします。

ジョンは幸いなことに指輪を取り戻すことができ、その指輪を主が管理してくださるようになりました。
神様がジョンの元に主イエスを遣わしたのですが、誰でもそのような恩寵にあずかれるわけではないと思います。

私たちはそのようなサタンの計略に引っかかることなく、心と思いと精神を尽くして神様を愛し、神様に縋りつく生き方をしなければなりません。

後日、ジョンはこの体験を振り返り、以下のように書いています。これも参考文献からそのまま引用します。

『この異様な夢が暗示しているのと非常に似ている状況に私が陥ってしまうときが訪れます。つまり、恐ろしい死の淵に、希望も、なすすべもなく、私が立っているときが訪れるのです。今なら疑う余地はありませんがそのとき私の目が見開かされていたならば、私を誘惑し、宗教上の信念を進んで断念、放棄させ、複雑怪奇な犯罪に私を関与させた私の大敵を見破っていただろう、ということです。換言するなら、私が苦悶するのを彼が喜んでいること、そして彼が私の魂をとらえ、彼の拷問の場所まで持ち去る機会をうかがっていることを、見抜いていただろうということです。』(引用ここまで)

このように、ジョンは、サタンの本質を鋭く見抜いています。
そして、主イエス・キリストについても、ジョンは以下のように書いています。

『私が困らせ挑んできたイエスが、悪魔を譴責し、私を火の中から燃えさしとして拾い上げ、私は主のものであると主張なさり、「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。私は身代金を得た」(ヨブ記33・24)と言ってくださったであろうということです。

主は、私が苦境にあったとき、私を守ってくださったのです。さあ、主の御名を褒めたたえましょう、指輪(あるいはそれが象徴するもの)を取り戻し、それを保管してくださる主を。私を保管しているのは私ではないということは、言葉では形容しがたい、何という大きな慰めでしょうか。「主は私の羊飼い」(詩篇23・1)。主は、私が自分のすべてを主の御手にあずけることができるようにされたのです。そして私は、今まで誰を信じてきたか、承知しています。悪魔はそれでも、私を所有し、麦のようにふるいにかける(ルカの福音書22・31)ことを望んでいますが、私の救い主は、私の信仰が弱まることがないように私のために祈ってくださいました。今は私には安全と力が備わり、地獄の門が栄えるのを食い止める防波堤があります。もし、このようなことがなかったならば、私は、可能なときは、たびたび身を破滅させてきたことでしょう。いや、これからも主の誠が、死ぬまで私の太陽と楯になるように示されることがないとするなら、主がこれまでに私のためになさってくださった諸々の出来事のあととはいえ、私は、それでも、転び、躓き、そして滅んでしまうでしょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」(詩篇103・1)』(引用ここまで)

ここまで読んで、ジョンが波乱万丈の生き方をしてきたことがわかると思いますが、彼の物語はまだまだ続きます。

画像引用元:荒野の誘惑の絵画と聖書 Temptation of Jesus Christ


参考文献:
「アメージング・グレース」物語(増補版)
   ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝
 ジョン・ニュートン著  中澤幸夫 編訳

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