南無阿弥陀仏はそのまま仏様
南無阿弥陀仏を唱えることは、阿弥陀様の呼び声に応えること。
って、浄土真宗の法話で聞いた。
また、必ず、お前を救う。心配するな。ということでもある。
色んな人間の不自由な言葉で説明するけれど、実際、南無阿弥陀仏はそれ自体が仏の存在を指す。
それは、西田幾多郎が言ったことだけれど、そうだと思う。
南無阿弥陀仏と唱える。
それは、今ここに阿弥陀様が言葉となっていてくださるということ。
無限の次元の存在が言葉となって、人間にわからせようとした、阿弥陀さまの思惟の結果だと法話で聞いた。
本当の言葉は消えない。
社会で通用する、普段私たちが話している言葉、例えば、お店で「大根ください」という言葉は、大根が買えたらもう用済みの言葉だ。
けれど、南無阿弥陀仏は消えない。
そんな人間が作り上げた社会の常識の次元の言葉ではないからだ。
それだけが、本当の言葉だ。
諸行無常。
すべては移ろいゆく。
何も止まってはいない。
阿弥陀さまは、いつもいつもお前を救うとしか言わない。
いまここで言っている。
それを聞ければ、安心だ。
いつ死んでも、私を救うとは、私を仏にするということだ。
永遠の命にするということだ。
仏になれば、縁あったものから、迷っているものを救うことができる。
仏陀は死後のことは何も言わなかったというが、親鸞聖人は歎異抄で生前縁あったものから仏になった後は救うと言っている。
阿弥陀さまは私を離しはしない。
なんとありがたいことだろう。
私は、私を捨てることがある。
けれど、阿弥陀様だけは私を離さない。
こんな力強い言葉があるだろうか。
阿弥陀さまの慈悲に感動する。
南無阿弥陀仏。
お前を仏にする。
それを言えるのは誰か。
考える。
すると、法話をしてくださったお坊さんだという。
けれど、もっと言うと、阿弥陀様しかいないのだ。
凡夫の私が考え付く話ではないのだ。
阿弥陀さまの直説なのだ。
阿弥陀さまが私に直接お前を仏にすると言ってくださっている。
無限者の言葉なのだ。
有限である人間がなぜ、無限者の言葉を聞けるのだろうか?
なんという不思議。
だから、有難い。
現代で仏法に出会うことは難しい。
いつ死んでも大丈夫だ。
私たちは、今、死に向かっている。
今、地震が起こるかもしれない。
今、事故にあうかもしれない。
ずっと生きていられる保証なんてないのだ。
だからこそ、いつ死んでも大丈夫だ。安心しろ。
という、阿弥陀さまの言葉を聞いたら、信心が得られるのだ。
死んだら仏になるという約束が今ここで起こったということなのだ。
これが、浄土真宗だと私は法話で聞いた。
実際、死ぬという恐怖がなくなっても、病にはなる。
そして、それによって苦しむということもある。
それでも、阿弥陀さまは私とともにいてくださる。
凡夫の方に阿弥陀さまが来てくださる。
南無阿弥陀仏と唱えれば、阿弥陀さまの見えない光が喜びに満ち溢れる。
それだけ、阿弥陀さまが私を心配してくださったということだ。
親よりも深く。
だから、名号を唱えると、阿弥陀さまは喜んでくださる。
どんな小さな声であろうと。
阿弥陀さまにはわかる。
人間には通じない話でも、阿弥陀さまには通じる。
一人、部屋で南無阿弥陀仏と唱える。
阿弥陀さまは喜んでくださる。
共にいてくださる。
そもそも、私は仏の命を生きている。
初めから。
生かされている。
安心して、生きればいい。
転ぼうが、凹もうが、好きにすればいい。
初めから、浄土はあるのだから。