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のんびり鎌倉紀行 海蔵寺/浄光明寺【赤い傘 #シロクマ文芸部】
赤い傘と言えば、鎌倉の海蔵寺です。
四季折々の花が咲き乱れる庭の入り口に、赤い野点傘が目を引きます。
みなさま大変おひさしぶりでございます!
「のんびり鎌倉紀行」、いかにのんびりでものんびりすぎるんじゃなあないのと突っ込まれても仕方がないほどのんびりめぐっておりますが、4月のある日、久しぶりに空ちゃんと海蔵寺を訪ねました。
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これは井戸ではないですが
このお寺は有名な井戸もたくさん
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60年後に足利氏が上杉氏に命じて再建
もと真言宗、今臨済宗
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今回は既に見ごろが過ぎてました
海蔵寺の薬師如来坐像は、別名「啼薬師」または「児護薬師」と呼ばれているそうです。
それにはこんな伝説が。
寺の裏山から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので行ってみると、泣き声は古ぼけた墓石の下から聞こえ、そこから金色の光がもれていました。
住職が墓に袈裟をかけたところ泣き声はやみ、翌日そこを掘ってみると立派な薬師像の頭部が出てきたため、それを胎内に収めたのが今の薬師如来本尊といわれています。子育てにご利益があると云われています。
この日の天気は曇り。
そろそろツツジが咲き始めるころ。
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あちこちで咲き誇っています
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今回は、ふたりで訪れるのは二度目だったのと、あまり時間がなかったこともあって、あっさり目の訪問になりました。
ウグイスの鳴き声がよく通って、あちこちで競うように鳴いていました(実際競ってるんだと思いますが)。
前回訪れたときの記事はこちら。
このときは初めて訪れて興奮気味だったのと、好天に恵まれたので、赤い傘もより鮮やかにうつっています。
記事を読み返すと、あの頃ちょうど『鎌倉殿の13人』をやっていたんだな、あの時結構ハマっていたな、ということを思い出します。
「ほのぼの」の記事でも書いていますが、私は海蔵寺というと、そこから浄光明寺に向かう途中にある「岩船地蔵堂」とそこに祀られていると言われている大姫のことを思い出します。
幼い頃に婚約し幼馴染として育った木曾義高の非業の死を受けて、大姫はその後大病を患い、17歳で生涯を終えました。
当時の教養人、慈円に女人入眼(政子と藤原兼子のように日本の総仕上げをするのは女性であろう)といわしめた北条政子は、自分が生きているうちにすべての子供に先立たれます。
夏草や兵どもが夢のあと
芭蕉が平泉で詠んだ句ですが、鎌倉に来るといつもその句が頭に浮かびます。つはもの、は男ばかりじゃないのです。
この後、浄光明寺に参りました。
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読まずにスルー。
帰ってから調べました。笑
藤原定家の孫の冷泉為相は
鎌倉後期の歌人です。
兄と訴訟になり母阿仏尼とともに
鎌倉に来ました。
その時のことを阿仏尼が書いたのが
『十六夜日記』です。
ここは為相の屋敷があった場所
と言われている場所だそうです。
ちなみに黄門というのは
中納言の唐風の読み方。
兄との訴訟を鎌倉に訴え、
勝訴したものの京に戻らず
鎌倉の歌壇を作り、
冷泉家の祖となりました
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このお寺に来るときは、どういうわけか、普段見られない場所が特別開放になっているときが多いのです。
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木戸に貼ってある貼り紙
なんか迫力ある文字
というか、こう言われると怯む
そこから続く山道を10分くらい歩くらしい
ここを公開している日にあたったのは初めて
この日、私はあんまり元気がなかったので、山道を上り下りする気力がなく、冷泉為相の墓までたどり着いて「もうこれ以上は無理」と諦めていました(そこに行きつくまでも結構急な坂、階段を上ります)。
空ちゃんがひとりで向かったのですが、そのうちなんとなく行ってみたほうがいいような気がして、後から追いかける形で山道に入りました。
後から、ここを公開しているのは毎年4月の第二日曜~第三日曜まで、1年間に1週間だけということがわかって、やっぱり行ってみて良かったと思いました。山道は、そこまで危険でもそこまできつくもなかったですが、古道という感じでワイルドです。滑りやすい靴などはお薦めできません。
奥の方には、とても立派な五輪のお墓がありました。
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(国の重要文化財)
3メートル22センチだそうです
浄光明寺を開いたのは忍性さん。
ちょうど義時が執権の頃に奈良で生まれ、東大寺で受戒。真言律宗を興した叡尊に師事し、30代半ばで鎌倉へ。鎌倉で布教や非人救済に尽力し、真言律宗を広めました。生涯で創建した伽藍は80ヶ所以上(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)におよび、鎌倉で精力的な布教・救済・供養等の活動をして極楽寺で没します。
少し前に『光る君へ』で「悲田院」が出てきましたが、もともとは聖徳太子が隋にならって作った大阪の四天王寺の四箇院(悲田院・敬田院・施薬院・療病院)が最初とされていて、皇太子妃時代の光明皇后(藤原不比等の子で聖武天皇妻)が興福寺に施薬院と悲田院を設置したのが記録上最古のものだそう。
平安時代には、施薬院別院として平安京の東西二カ所に設置され、鎌倉時代には忍性が関東各地に広めました。これをめぐっては師の叡尊と意見が違うこともあったらしく、このふたりの師弟関係はお互いに刺激的なものだったよう。
で。この忍性さんの後を継いで浄光明寺の前にあった「多宝寺」の二代目別当となったのが、このお墓の覚賢さん。
最初はここは忍性さんのお墓だと思われていたようです。
こちらの五輪の塔と「極楽寺」の五輪の塔、どちらも「忍性の墓」と伝えられてきたようですが、昭和50年代の修復の際、地輪の下から覚賢さんの名前が彫られた銅製の骨臓器が出てきて「忍性さんじゃないじゃーん、覚賢さんじゃーん」となったらしいです。ちょうど同じころ、極楽寺の五輪の塔の修復でこちらでは忍性さんの名前の掘られた骨壺が出てきたので、現在は「極楽寺」のお墓は「忍性塔」、こちらの浄光明寺のお墓は「覚賢塔」と呼ばれているそうです。
ちなみに、忍性塔は覚賢塔より70㎝ほども大きいそうです。
極楽寺に行ったことはありますが、見たことはありません(普段は非公開で、こちらも4月8日のみの公開だそうです)。
覚賢塔、写真で見るよりも実際はずっと巨大でした。
そもそもこれだけの大きな石をこの山奥に運ぶという情熱は相当なものだと感じました。それだけ、覚賢さんに対する人々の尊敬の念が強かったのだと思います。
なぜこんな山奥に…と思いましたが、ここが実際に荼毘に付した場所だったからなのだそうです。
帰ってからいろいろ調べたところによると、忍性さんは師の叡尊さんと意見が異なり、叡尊さんは非人を特別にケアしたけれど、忍性さんはそれでは逆に差別になるとして、老若男女貴賤を問わず万人へのケアを広めたようです。人々に篤く信仰された理由がわかろうというものです。
それじゃあ叡尊さんはちょっとアレなお師匠さんだったのかというと、叡尊さんは叡尊さんで、権力やお金と結びつき始めた真言宗を正そうと真言律宗を興し、空海が当初目指したものを取り戻そうと、人々の救済に力を入れたお坊さんのようで、こちらはこちらで立派な方。
忍性の二代目として多宝寺を受け継いだ覚賢さんもおそらくそうした形で師の思いを受け継いで人々の救済に熱心だったと思われます。なるほどこれほどの熱意を持って塔が建てられるわけだ、と納得しました。
鎌倉仏教といってもいろいろです。
極楽寺については、以前「ブラタモリ」でも色々取り上げられていましたが、忍性さんの夢が詰まったお寺だったようです。その夢の欠片が、ここ浄光明寺にもあったのですね。
浄光明寺には他にもいろいろなお話があります。
前回はこんなことを考えていました。
行くたびに、視点が違ったり、学ぶことが違ったりして、奥深いのが鎌倉の寺なのです。
で、前回行ったか行かないかわからなかった冷泉為相の墓は、たぶん前回もそこまでは行ってたと思います。それより奥があるとは露ほども思わず・・・
今回のお楽しみのランチとお茶はこちら。
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もちろん空ちゃんが見つけてくれました
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しかも全部おいしい
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ブラウンソースは和牛の煮込み
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小町通でも結構古くからある店みたいです
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ふたりとも忙しくなり、次はいつ行けるかわかりませんが、粛々と「のんびり紀行」、進行中です。
※現在進行形の旅はこちら
※その前の鎌倉旅はこちら