グリコは1粒300メートル。コニシ木ノ子さんの感想は1記事1万歩。
人生初、読書感想文を書いていただいた。
コニシ木ノ子さん。
拙著『駐妻記』を読んで、読んだだけでなく、感想までも書いてくださった。そしてさらにはその感想を、記事にしてくださったのだ。
これまで、感想文を書いたことは多々あれど、感想文を書いてもらった経験はない。生まれて初めての「私が書いた本」に対する感想文。
正直、あまりのことに、この喜びをどう表現していいかわからなかった。
なんか、うわ―――――ぉと、・・・訳もなく、うわぉ、となった。
うわぉしゃぁぁぁ――――――ってなんかまったくもう言葉ではない。もはや自分でも何言ってるかわからない。日本語ですらない。
コニシさんの感想文記事が投稿されたのを知ったのは朝だったけれど、私は空ちゃんと鎌倉に行くことになっていて、すぐにお返事ができなかった。
結局、うわぁぉとなったまま鎌倉に行き、1万歩以上、歩いた。
キーマカレーを食べて、人生何十年ぶりかの本格パフェを食べた。
もし、コニシさんの記事を読んでいなかったら、梅の開花を求めてひたすら何時間も歩くようなことはしなかっただろう。空ちゃんに「もうバスに乗ろ、バスバス」と言っただろう。いくら魅力的だったとはいえ、普段選ばないパフェを食べるとは言わなかっただろう。
グリコが1粒300メートルなら、コニシさんの記事は1記事1万歩+パフェ(大)である。
日頃運動不足でフレイル寸前の私の足が、よく動いた。
何を食べても美味しかった。
これは、感想の感想を書かねばなるまい。
夜やっと時間が出来てじっくり記事を読み、コメントしたら、翌朝コニシさんから「改めてお返事いらないです」とコメントがあった。
いや、無理。
コニシさん、それは無理。
だって私は、自称読書感想文ブロガーだから。
自分への読書感想文の感想文を書かないという選択肢があり得ない。笑
これはだから、感想の感想、憧れの「往復書簡」的なものになるのかもしれない。記事でいただいた感想に、記事でお返ししたい、と思った。
コニシさんは、常日頃、私も尊敬する卍丸さんというnoterさんと記事やコメントを介して文学をめぐるやり取りをしていて、それがまさに「往復書簡」のようで、羨ましく思っていた。
いつも、そのやりとりそのものがひとつの小説のように感じている。
私がコニシさんと出会ったのは(というかnoteなので最初は一方通行なのだが)、KONISHIKIさんについて書いてある記事や、独特の文体に惹かれてのことだった。
私は『にほんごであそぼ』が大好きだったので、コニちゃんも、もれなく大好きだった。だから「コニシキ・・・ノコ・・・ああそうか!」とすごく納得した。
おそらく一番最初に読んだ記事はKONISHIKIさんのことについて書いてある記事だったのだが、すぐに、コニシさんが文学について語る記事に吸い寄せられた。だから、KONISHIKIさんとのイベントの記事を、全部は読んでいない(今見直したら、すでに読んでいる記事にスキがついていないのを発見してちょっと憤慨している。きっと「スキ制限」のときにスキしてしまったのに違いない)。
卍丸さんとのやり取りを中心に、コニシさんの文学記事を読み始めてからも、実はまだ日が浅い。だから本当のところ、コニシさんに関する情報は、多くのノコキスト(?)に比べたらうんと少ない。
須賀敦子、室生犀星、開高健、髙樹のぶ子、阿部公房、横光利一、大江健三郎、谷崎潤一郎、吉行淳之介・・・
彼のセレクトは、シブい。
今の小中高生は、図書館に行って(そもそも図書館に行く子がいればの話だが)、ずらりと並んだ「日本文学全集」の物々しさに怖気づき、そそくさとその前を通り過ぎる人が大半なのではないかと推察する。
そう、でもそう。そこにいる彼らを、コニシさんは曇りない目で、読んでいる。読んで血肉にしている。
正直、私自身、彼らとはパッタリお見限りで、正直に言えば存在を忘れかけていた。若いころに読んだ本もあれば、読まなかった本もある。同じ作者でも読んでいるタイトルもあれば、素通りしたものもある。いや、素通りしたものの方が多い。ほんのわずかばかり、読んだというきりだ。
それでも、私はコニシさんのセレクトから、いろんな感情を揺さぶられ続けている。読んだ本はもちろんの事、「読まなかった思い出」すら蘇る。
さらに、卍丸さんとのやり取りから卍丸さんのnoteに訪問し、彼の記事からも触発されている。
まさに「#読書好きの人とつながりたい」を実践されているのが、コニシさんなのだ。
コニシさんの凄さというのは、なによりも「フラット」なことだと思う。
彼自身、コメントにこう書いていらした。
彼ほど公平な視線を持っている人はそんなにいないと思う。だからこそ、人から人へ、自然にKONISHIKIさんに繋がっていくのだと思う。
物事の大小もそうだが、前後上下左右にフラットだ。私のような50代にも、卍丸さんのような20代にも、年齢性別というこだわりは一切ない。
人は思わぬバイアスを持っているものだ。「この人は私とは違う、異性だし年齢もずいぶん年上(年下)で共通項なし」など、無意識に選別しがちだ。しかしコニシさんはそこをまず、取り払うところから出発しているように見受けられる。違うからこそ興味を持ち、違うからこそ知りたくなる。そんなふうに感じる。
ひたすら作品と向き合う。作品を通して、作者と向き合う。その姿勢は真摯で、情熱的だ。
ただまっすぐ、表現したいものを見ようとしているのを強く感じる。
分け隔てない懐の深さがある。誰に対しても、敬意と尊重を忘れない。これができる人は本当に少ない。だからこそ、彼の周りのたくさんの人が彼を慕い、様々な人とのつながりができていくのだろうと思う。
私は、note仲間のみらっちさん、ではなく、「吉穂みらい」としてコニシさんに取り上げてもらって、本当に嬉しかった。いや、note友のみらっちさん、だってもちろん嬉しい。でも、コニシさんが取り上げている「歴史に残る文学者の名前」の隅にコッソリ紛れ込ませてくれたのが、卒倒しそうなほど嬉しかったのだ。まっすぐに私の「作品」と向き合ってくれたのだと心から感じて、感激した。
吉穂みらいの駐妻記は、その時間に生きている。
そう言ってくださって、「書いてくれて良かったと伝えたい」と言ってくださった。読んでいた時間が「良い時間」だったと言ってくださった。
冥利に尽きる。
改めて、心から感謝申し上げたい。
忖度だって、全然かまわない。笑
なんのはなしですか。
↑ そしてひそかにこれが、大好きである。
筋トレ記事だって、コニシさんにかかればいつの間にか妄想から文学、文学から哲学になってしまう。今のところ彼の記事の自己申告による状況証拠しかないが、彼に憧れる女性が多いのも、友達が多いのも納得なのだ。