走れ山伏【中世を道から読む/齋藤慎一】みらっちセレクション⑬
本来なら、「のんびり鎌倉紀行」で鎌倉殿のお話をするのですが、残念ながら、このところの感染症流行状況と天候不順、空ちゃんと私のスケジュールの都合から、なかなか計画が立ちません。
しばらくは実家訪問とともに「のん鎌」も夏休み。
と、言うことは、「先週の鎌倉殿」は、ない、ということね…?
いやいやいや。
こちらで、やらせていただきます。粛々と。
先週の鎌倉殿。
後鳥羽上皇、登場~。
義時の実質的な敵、ラスボスですね。
頼朝の死を、独自の解釈で推理していました。
あれが今回のドラマの「正解」なのでしょうか。
病死説。
今回は、合議制の13人が決まる週でした。
三谷さんの真骨頂、コメディタッチで少々ドタバタに描かれていましたが…
以前、上総広常は学が無く字が読み書きできなかったという描写がありましたが、当時の御家人たちの識字や教養がどれくらいあったかは謎です。
頼朝が大江広元などの文官を京から連れてこなかったら、まともな政治はできなかったはず。頼朝が御家人を軽んじていたのもそのせいだと思います。
先週は、頼家が自分の味方とするため若衆を集めて、文官の講義を聞く場面がありましたが、文官は「政のおおもとは、訴訟のお裁きにございます」と言っていました。
ここに、のちに「御成敗式目」を制定する、太郎(泰時)と五郎(時房)がいるのが何とも言えず、ツボでした。
頼家が山のような訴訟の文書を見て辟易する場面や、頼朝は文書を確認することで裁きを下していたと文官が進言する場面も。
今も昔も、世知辛い世の中です。
若い頼家、逃げ込むように蹴鞠ばっかりしています。
北条がまとめた「吾妻鏡」で描かれる頼家は暗君。身内を暗殺してしまった北条にとっては暗君じゃないとおさまりがつかない、ということらしいです。朝廷側がまとめた「愚管抄」ではそこまで悪くは描かれてないのだとか。このドラマは北条の話なので、どうしても頼家は「暗君」寄り。人生を通して板挟みの人ですね…もう少し頼朝が長生きしていたら、北条の世は来なかったかも。
義時はこの物語では金勘定の得意な文官寄りの人物に描かれていて、今回の合議制の最初の提案は、文官と、報告書や起請文が書ける梶原景時(頼家を丸め込むのに適任という打算も)。梶原景時は頼朝に義経の告げ口をするなど、人の恨みを買いがちな人物。案の定、そこから話がどんどん大袈裟に(ドラマの設定では)。
義時には、当時の御家人の中では突出して政治センスがあったにちがいなく、ただただ「姉ちゃんが言うから仕方なく」「運よく」執権になったとは思えません。
うーん、どうしても義時を黒幕にしたい気持ちがある私です。ニヤリ。だってそうじゃないとあらゆる難を切り抜けて生き残り、北条執権の基盤を作ったのがただの「運」ということになってしまう…
そんなわけで、今回は以前のブログ記事からの転載で、久しぶりの「読書ブログ」ネタとなります。
今日の本はこちら。
『中世を道から読む/齋藤慎一』2010年刊。
鎌倉に近い地域に住んでいるのですが、常々、地図上、真っ直ぐ北に向かう道があればいいのに、と思っていました。
鉄道で逗子から渋谷新宿にむかう湘南新宿ラインができた時は、ものすごく画期的!と思いました。それ以前は品川や東京から乗り換えないと、新宿には行きにくかったのです。
鎌倉時代、上道、中道、下道と呼ばれる鎌倉街道(そこまで整備された道ではないけれども、江戸時代にはそう呼びならわされている記述があるらしい)があり、宇都宮に至るのは中道(中路)でした。高崎に至るのは上道、土浦方面の常陸方面に向かうのが下道でした。
湘南新宿ラインは高崎行きと宇都宮行きです。
東京上野ラインも延びて、高崎・宇都宮・土浦に向かっています。
必ずしもまっすぐ北ではありませんが、もしかしたらこれは鎌倉街道に近いんじゃないか、と漠然と考えていました。
この本によると、鎌倉が拠点の時代と、江戸が拠点の時代に必要な道は違うのだと言います。江戸に拠点が移った時点で、鎌倉街道の必要性が無くなったのだ、と。
なるほど~。
もともと、日本は急流河川の国。坂東では、利根川を中心とした支流を含む川の流れをどう渡るかで道が決まり、難所があれば管理しなければならず、関や物見を設ければそれだけ管理者が増え、それらを掌握しながら道を確保することはものすごく大変だったのだそうです。
江戸以前は小規模に武士を中心とした領地があり、そのせいで関所がやたら多いわけです。とにかく一貫した幹線道路を整備することは不可能で、獣道みたいに、人や物資が往来することにより出来た道をつないで繋いで、川の流れの通りやすいところでまだ繋いで、領地に寄っては険しい尾根道、あるいは整備された広い道とモザイク模様に展開していったのが鎌倉街道の全貌でした。
この本を読むまで私は「鎌倉街道」というのが現在の道の感覚(ある程度幅の広い面積が線上に長く続いている)で存在していたんだろうと思っていたのですが、「この道が鎌倉街道」などというものはなく、馬が行ける道や徒歩でしか行けない道など数多くの道が存在し、季節や領地争いの情勢により、道を選んで上道から中道、中道から上道と回り道したり、あるいは下道で千葉から直行など、通行するのに人々が様々に腐心していたということを知りました。
現在、首都は皇居を中心に環状に道路が走り、放射線状に鉄道と主幹道路が配置されています。神奈川から埼玉、群馬、栃木方面に行くには、どうしても都下を遠回りしていくか、都心を経由するルートになってしまいます。
それはすべて、江戸幕府が東海道を京都と江戸の直結ルートに整備したから。
東海道は鎌倉時代にもあって(旧東海道。それより古い東海道もありました)、鎌倉と京を結ぶ道でしたが、江戸に幕府が置かれてからは、鎌倉時代に利用されていた道は廃れたそうです。
対して鎌倉道は、鎌倉を中心に坂東全域に延びる、縦の道でした。
ところで、中世の山岳部で情報を最も早く迅速に伝えていたのは忍者や間者ではなく
山伏
だったということを、この本で初めて知りました。
山伏。
絵巻などには僧形の天狗姿も多く描かれます。
いわゆる弁慶みたいな人(イメージ)ですね。
そのネットワークはすさまじく、治水ができない時代、山岳部を天狗のように駆け抜けた、(身分としては)「僧」たちがたくさんいて、ヒトモノカネを伝達していたことは、非常に興味深いです。各地の寺を拠点に、日本国縦横無尽です。それこそ出羽や陸奥、熊野や吉野まで、津々浦々といっていい範囲。
人間が平地の集落に密集して、道路が寸断された場合、ヘリ以外には通る道がなさそうです。インターネットが通じ無くなれば、それこそお手上げです。
そう言う意味では、中世は実は、分断されていなかったのかも、と思いました。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたリアル山道で情報をやりとりしていた、とすれば、電話もインターネットもないのに情報が即座に伝わった理由がわかります。時間はかかるし正確ではなかったかも知れませんが。
史跡と伝説がたくさんあるのに、痕跡のない鎌倉街道。
先ほどの東海道にみるように、中世15世紀後半、北条早雲が出る頃までの主幹道路と、戦国から江戸、現代に続く主幹道路が、縦と横になっている、というのは面白かったです。
そして「遠路」とは、単に距離だけではなく、通行困難をさしていたことも興味深いです。心理的にも物理的にも、やっぱり鎌倉は遠かったんだなぁ、と思います。
「いざ鎌倉」は、そう簡単なことじゃなかった、ということですね。
道なき道をかき分けて歩いた当時の人々の旺盛なパワーを感じずにはいられません。
10年以上前の本ですが、図書館での出会いです。
想像力を刺激する本でした。
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