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優しいガンダム

 こどもの日の前日。
 その事件は起こった。

 三月末に三年に及ぶ単身赴任から戻り、やっと家族と過ごすぞ、しかもGWは珍しくしっかり休みをもらったぞ、という夫と、このご時世に中学生になって、すっかり思春期の反抗と甘えが板についた息子との間に、ついに亀裂が入った。

 遠くに旅行はできないから、せめて家族で食事に行こう、と、予約までしていた外食をめぐって、ちょっとした諍いから揉め事に発展した。 

 今回ばかりは全面的に息子の態度に問題があり、普段温厚な夫もさすがに堪忍袋の緒が切れたようだ。

  私は、怒りよりも息子の言動に傷ついたし、せっかく家族で過ごす時間がふいになってしまったことも悲しかった。

 盛大に落ち込んだ。

 そんな私に、夫は言った。

「ガンダムを観に行こう」。

 そう。
 横浜山下ふ頭には「GUNDAM FACTORY YOKOHAMA」がある。
 「動くガンダム」だ。
 

 「動くガンダム」は、夫が帰ってきたら家族で観に行こうと約束していたものでもあった。 

 ネットで存在を知り、目を輝かせて「必ず見に行こう」と約束した時は、息子は今よりまだ少し子供で、無邪気さを残していた。

 外国にいた夫はその後帰国できず、二年もの月日が経った。
 途中で開催期間が終わってしまうと諦めていたが、好評のためかその後開催期間が延長となっての、この春だった。

「いやでもしかし、こんな状況とはいえ、置いて行ったら息子に悪い。約束していたんだし」

 と私が言うと、

「自業自得だ。こんな状況だから、観に行く」

 という。

 私も心のどこかでは、「もう、息子は親と見に行きたいとは思っていない。悪いなどと思う気持ちは、単に子離れできない未練だ」と、わかっていた。

 そのころ、息子からは「やはり自分が悪かった」というLINEや、着信があった。謝って来たことで、私は半分、ほっとしていた。悪かったという気持ちはあるのだ、反省することも謝ることもできるなら、まあ、よしとするべきか…

 しかし、夫は武士のように「今は許さぬ」と言った。

「ここできちんと反省できなければ、それまでのことだ。今後、家族以外に迷惑をかける人間になるか、ここで反省するか、それは本人次第だ」

「息子が来ないなら来ないでいい。意地を張ったのだから、一食くらい食べなくても自分でどうにかするだろう。今日は、親は予定通り食事に行く。そしてガンダムを観る」

 ガンダムは当初の予定ではなかったが、ガンダム好きな私への、夫なりの慰めだったのだろう。

 実際に目にした「動くガンダム」は、思わず子供に戻って「うわぁ」と言いたくなるくらいに、巨大でリアルだった。

ドックに格納状態のガンダム。

 見上げながらほんの少し、二年前なら息子は一緒に観ただろうか、という思いが、心をよぎった。一緒に観たかったな、とも。
 詮無いことだ。

 さて、当のガンダムは、確かに「動く」という点では画期的だったが、想像以上にアトラクション感が強かった。
 声優さんの声にあわせて、一歩前に足を踏み出し、片膝をつく。
 パイロットはコクピットでAIに宿ったアムロの精神に触れ、アムロの声を聞く。その物語にそって、ガンダムが身体を傾けたり手を動かしたりする。

 戦いに出るのではなく、モビルスーツの動作確認をするだけという「平和的行為」に安堵するアムロ。この先の未来に戦いが無いことを祈念して、プログラムは終わる。

 私たちの隣では、小さな男の子の兄弟が「ねえ。もっと動く?歩く?」と、お父さんに話しかけていた。

 息子の幼いころを思い出してまたちょっとだけブルーになったが、冷静に考えると、このプログラムにはファンにしかわからない言葉がちりばめられていて、ファン以外の人や子供には内容がよくわからなかったかもしれない。
 それに、「動く」と言われれば「歩く」のだと思っても仕方ないだろうな、とも思った。

 それでも動きは音もなく滑らかで、現代における最新技術がそこに集結されているのだろうと感じさせるには十分だった。

 会場に、富野由悠季さんのこんな言葉が掲げられていた。

「見に来てくださってありがとう。ごめんなさいと言わせてください」

 謝罪の理由は「ガンダムを歩かせることができなかった」ことに対してだった。

 実物大ガンダムを「歩かせる」ことにはまだまだ課題が多いのだと言う。
 技術的な理由や、法律的な理由から、現在乗り物ではなく「巨大建造物」としてしか認められないガンダムを歩かせることは不可能で、ここまでが限界だとのことだった。
 重力に逆らって二足歩行をするための、物理学的な問題点も丁寧に解説されていた。

「二本足で歩かせることができなかったので、悔しいと思っています。ですから、きみたちにお願いがあります。
 もっと乗り物として動かしたいと思う人は、このガンダムを見上げて、解決しなければならない問題がいっぱいあるのだ、という想像をして、その解決策を考え出してほしいのです」

 「でも今回、ここまでしか動けないガンダムですが、建設に関係したスタッフはみんなで、造って良かったと思っています。
 なぜなら、これだけの大きさの人の形が、ゆっくりしか動けないのですが、そのゆっくりさがとても似合っていて、やさしいなぁ、と感じているのです。
 本当は、アニメのように早く動くとか、スポーツ選手のように格好よく動いてほしかったのですが、それだけでない”優しいガンダム”を見上げられることができて、ちょっと幸せな気持ちになっています。」

 この文言を読んで、納得した。

 そもそもガンダムは、武器だ。

 宇宙空間で仕事をする作業用ロボットを、人が操縦できる武器として改造した、という設定だった。

 性能がもとの設定に近づけば近づくほど、「武器」感は増すだろう。味方にとっては頼れる兵器かもしれないが、敵にとっては殺りくマシン=「白い悪魔」だ。

 歩けるようになれば、武器としての認知も使用もしなくても、ほんの少しの誤作動で簡単に人間を踏みつぶすことができてしまう。万が一転倒したら大事故だ。私たちにとって便利な自動車だって、操縦を間違えば凶器になる。

 そんなガンダムを、果たして私たちは見たいのだろうか。

 こんな風に、幸福の王子のように立っているガンダム。宙に手を差し伸べて平和を願っている「優しいガンダム」こそが、今の私たちに必要なモニュメントなのでは…

 ガンダムに憧れて、二次元のイメージを実物大の物質として現実の世界に造りだした人々は、未来に、後世に、その技術の革新を託した。
 夢は継承され、このガンダムを観た子供の誰かが新しい世界を切り開き、いつかは、この巨大ガンダムが歩き出してアニメのように動く日も来るのかもしれない。

 生みの親の富野さんは、「動く、と聞けば、きっと人々はアニメのようなガンダムを期待してくるのだろう。その期待に応えられるものは作れなかった、申し訳ない」という気持ちがあるのだと思うが、現時点でこれだけのものができたことが凄いことだし、そして「途中」だからいいこともある。

 「途中」は、まだまだ「見果てぬ夢」が続くということでもあるし、まだまだ、「伸びしろ」や「可能性」に満ちているということだ。

  期待した通りじゃなくていい。

 「正しい形」だけがすべてではない。
 少し不出来でも、「恐ろしい」より「優しい」ほうが、いい。
 本当に歩く日が来ても、やはり「優しい」ままでいてほしい。
「武器ではない、歩くガンダム」をいつか、見てみたい。
 ターンエーガンダムの、川で洗濯をしていたような、ガンダムを。

 子供もきっと、そうなのだ。

 こどもを育てるということも、その子供が社会に貢献していくということも、まさに夢であり、未来に託すべきことだ。

 自分たちの都合で思い通りに動く最高スペックの子供を育てることが親の役目ではない。

 親は子を、途中までしか支えられない。
 子供はいつしか、自分で自分を育て始める。
 親はただひたすら、自分たちにできる限りのことをして、子供がより良い選択をすることを祈りながら、後は見守るだけしかできない…

 未来に、託す。

 いよいよ本格的な親離れ子離れの時期が来たんだな。

 そんなことを思いながら、夕日を浴びてちょっと内またに佇むガンダムを見上げたのだった。

このあと、格納状態に戻るプログラムがある






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