みらっちと吉穂みらいのとりとめのない話
今日は、久しぶりにみらっちで記事を書きます。
とりとめのない雑記になります。気まぐれに書きますので、気まぐれにお読みください。
猛烈な暑さの夏。大雨や地震、台風の心配など、心乱されることの多いこの頃です。全国的にお盆の時期を迎えていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
家族の療養のため帰省しており、noteをお休みするような形になって10日余りが過ぎました。完全にお休みしたわけではなく、時々記事を読んでコメントを書いてみたり、つぶやきを投稿してみたり。時間を見つけてはnoteを開いていました。今や、noteが自分の生活の一部になっていることを実感します。
やるべきことの多い10日間で、これまで自由に記事を書ける時間がありませんでしたが、昨日、今日になってようやく、落ち着いて書くことができるようになってきました。ありがたいことです。この10日は、みらっちとしての今後、吉穂みらいとしての今後を考えるいい機会になりました。
『吉穂堂』は、昨年の、ちょうど9月からスタートしました。
1周年になります。
1周年記念になにかしたいと思っていたのですが、身の回りでいろいろあったため、今のところまだ計画は白紙です。
海人さん、渡辺有さんと計画しているアンソロジーも着々と進行中なのですが、6月に開催した読書会もまた開催したいですし、PASSAGEで1日店長さんをやりつつ、吉穂堂フェアもいいなと考えています。お客さん、来るでしょうか。どうでしょうか。
サトちゃんが読み切れない問題
なにごともやってみなければわからないですし、結局は今自分にできることを精一杯やるだけなのですが、今回帰省した事情が事情ということもあり、時々、自虐のドツボにはまったりもしています。
今回聞こえてきた自分の声は「自作本なんか作ってなんになるのか」ということでした。
周囲に評価されるでもない、ただの自己満足の本です。ごくごくたまに、私の本に出合ってくださった方がいて「世界でたったひとりでも、読んでくれる人がいたら」という願いはかなっています。ひとりどころか、片手の指の数くらいに及んでいます。
これ以上贅沢を言ってはいけない、というのはよくわかっています。それでも、自作本の数が増えてくると、どうしても「読まれない本だらけ」になってきます。当然のことです。
いつのまにか、私の願望は「いつかだれかが私の本を全部読んでくれないかな」ということに変わってきていました。それがとてつもなく嫌でした。ひとつが叶ったら次、その次と、願望は次第にエスカレートしていきます。
誰かが私の本のなかの1冊に出合う。それだけでも奇跡です。
名も知らぬ素人の18冊もの文庫本を、だれが読みたいと思うでしょう。
それなのに、もっともっとと心が叫び始めるのが、空恐ろしくなりました。
これまで作った自作本は18冊になります。まだ、原稿があります。あと何冊作れば終わるのか、わかりません。
「本を作ろう」と思った当初、自費出版を調べたら50万~100万円ほどの金額がかかることがわかりました。
「自分ひとりの力でも本を作ることができるらしい」ということがわかり、それなら50~100万円かけて自費出版したと思ってやれるだけのことをやってみよう、と決意しました。予算、暫定50万。生涯1冊の本も出さないで後悔しながら死ぬよりいいと思って、まさにバンジージャンプ的勇気を振り絞りました。
私が文庫化する目的は、親友サトちゃんの「紙の本で読みたい」という希望を叶えるため、そして自分が読んで楽しむためです。私は自分が書いたお話が結構好きなのです(笑)。ただそれだけなのだから、読んでもらえなくても、売れなくても、ちっとも構わないはずでした。お金儲けが目的ならとっくの昔に破綻しています。
でも『吉穂堂』に置いている限りは、やはり誰かの目に触れ、誰かの心を惹きつけたい、好きになってもらいたい、気に入ってもらいたいという気持ちもあり、それもまた本当なのです。こういうのを、強欲、というのですが、さすが七つの大罪のひとつ、一筋縄ではいきません。
そんなわけで定期的に、自虐と自責の坩堝へと身を投じる羽目になります。もうこのへんにしとき、という呆れ声と、まだまだいけるやろ、と嗾ける声がサラウンドで脳内に響き渡ります。
どのあたりで折り合いをつけていくのか。
それが今後の課題です。
この夏休み、本当に久しぶりにリアルでサトちゃんと会いました。サトちゃんが、「こんな未来、まったく想像していなかったけど、でも、みらいの原稿は、いつか自費出版で50万かけてでも紙の本にするつもりだった」と言うので涙を堪えるのが必死でした。
⁻と、ここまではドラマティックな展開だったのですが、サトちゃんは続けてこう言いました。
「あのとき50万かけなくてよかったよ。ところでさあ、あと何冊出るのかなあ。まだあの時本にしようと思った原稿、本になってないんだよね。なんかめちゃくちゃ果てしない感じになってきて、私は老眼になってきたし、読み切れるかな。やばいよ。最初はみらいの専用本棚を買おうと思ってたのに、もはや本棚に収まり切れないし、「吉穂文庫」の可愛い本棚の夢がどっかに行ってしまったよ。ブックエンド買うしかないじゃないの。お互い子供産んで育ててる間に、いったいどんだけ書いてたんだか~」と笑っていました。
サトちゃんに読んでもらえないほど書いてしまったかよ、自分。
サトちゃんが読み切れない本を、世界のだれが読むのだよ、自分。
というわけで、何百万字どころか何千万字も書いてしまった自分に、落ち込んでいます。
あやしもさんの『レモン』問題
なつスパの「あやヱリさんゲスト回・後編」でも話題だった、あやしもさんの話題作「レモン」のこと。
どうでもいいんですが、私、この「なつスパ」の直前の回に出演していまして、「なつスパ」の中には入れてもらえなかった、という悲しい過去があります……残念過ぎる。緊張しすぎてたからな。つまんないことしか言えなかったもんな。いろいろ残念過ぎる。
いや、そんなことはどうでもいいんです。
あやしもさんの「レモン」は、登場人物に対してのすまスパメンバーのコメントがたいそう盛り上がっていて、コメントしたくてうずうずしてしまったのですが、コメントしようかどうしようか、なんて考えあぐねているうちに、家のことがあったものですから、そのままになってしまいました。
そのあまりの盛り上がりに、あやしもさんご自身が、記事を書かれているほど。
コッシーさんの朗読もすごく良くて、でもなによりもコッシーさんやこーたさんのコメントが興味深かったです。
この先はぜひ「レモン」をご一読くださってから読んでいただきたいのですが、この朗読会の感想で、男女の友情が成立するかいなかで盛り上がったのがとても面白かったのです。
私の初読のときの感想は、この話題が再燃した、こちら、
「すまスパ流行語大賞ノミネート」の中でmarmaladeさんがおっしゃっていた「彼女のだんなさんが一番悪いんじゃない」の発言と同じ感想を持っていました。
深夜に家に押し掛ける元カノ。
それをやすやすと受け入れる元カレ。
元カノが好きなレモンを、冷蔵庫に常備している元カレ。
朝から何も食べられないのに、元カレのパスタは食べられる元カノ。
お客さん用のカップでコーヒーを出す元カレ。
そんな態度に安心するという元カノ。
結局は帰っていく元カノ。
見送るときちょっとだけ引き止めたくなる元カレ。
いやこれ、友情じゃないよね。と思いました。
「アジール」なんだと思います。避難先。
ただ、避難先が元カレしかない彼女はとても可哀そうな気がする。
そしてその彼女の繊細な「可哀そうさ」がわかっているから、元カレは受け入れるんだと思います。
元カノは、元カレのことを、もともと「羽休め」にしていたんだと思います。付き合っているときから。
本当は「夫」のことだけが好きだったのかもしれません。
だけど「夫」は元カノのことだけをみてくれるひとじゃないんですよね。それどころか彼女のことを傷つけることしかしない。
子供の名前の話が出てきた時の、ミドリとかナオコって「ノルウェイの森」ですし、「レモン」は「ノルウェイの森」を下敷きにしていて、これはあのノルウェイの森の、輪郭が曖昧な主人公、なんか結局女の子と寝てばっかり後悔ばっかりしているあの主人公の「ぼく」に対するアンチテーゼなんじゃないかと、私は思いました。
そう考えると、「レモン」の元カノはとても危うい。
元カレが救わなければ、もしかしたら死んじゃうかもしれない人です。
そんな女の子と「ぼく」を、「レモンでつながっている」ことが救うお話なんじゃないかな、と思ったのでした。
あやしもさん、すげーって思いました。
「人生には3つの坂がある、上り坂、下り坂、まさか」のところでは『カルテット』というドラマを思い出しました。
あのドラマには、登場人物全員が片思いをしているような、奇妙な友情と繊細さがありました。それを「レモン」にも感じました。
ちなみに男女の友情が成立するかしないか、ということに関しては、私の考えは「人による」「時期による」です。性的な関係があるなしは関係ないと思います。性的な関係になったから友情が壊れる、というならそれはもとから友情ではないし、性的な関係を経て友情になる夫婦って日本には多いですね。同性同士でも友達になるのって難しいですし、友情を維持するのはもっと難しいです。出会った時期が結婚妊娠出産が可能な時期だとこじれるけど、老婆と爺さんになってからなら成立するかもしれません。なので「成立するかしないか」をイエス・ノーでは答えられない、というのが答えです。
というわけで「レモン」問題にコメントできて、やっとすっきりしました!
ではみなさま、ご先祖様とよいお盆を。