縫う人
タケチヒロミさんの衣装の記事が好きだ。
この記事などは、もう圧巻だ。
タケチさんは、ウェディングドレスのリメイクなどドレスのお仕立てをなさっていて、大学で学芸員になるための勉強をされていたり、衣装をめぐる旅に出るなど、とても活動的でエネルギッシュなかただとお見受けしている。
タケチさんの記事を読むたび、母のことを思い浮かべる。
華麗な衣装の陰には、お針子がいる。
誰かの手がその芸術を作ったのだなと、想像する。
タケチさんはご自身を「いとへんの女」とおっしゃっているのだが、母もそうだと思うのだ。
母も「縫う人」である。
いとへんの人の、仲間だと(勝手に)思っている。
戦後すぐに生まれ、四人きょうだいの末っ子で、勉強はしたくてもさせてもらえなかったらしい。早く手に職をつけて独立する(当時はそれが嫁に行く、ということだった)ようにと言われて育ったと聞いている。
高校を出ると縫い子の修行に洋装店に入った。そこでテイラーの技をいちから教わったのだという。
即、実践力として働く、仕事をしながら教わるいわゆる「見習い修行」だったので、とても厳しかったらしい。
顧客に直接渡すものだから、失敗はできなかった。
お給料もお小遣い程度のまさに雀の涙で、胃を悪くしたらしい。
その後母は結婚して、家庭に入り専業主婦となった。
母はそれでも、無理に強いられて洋裁をしていたわけではなく、もともと洋裁が好きだったから洋装店にでもという話になったようだ。
本当はデザインの勉強などをもう少ししてみたかった、と今でも母は言う。しかし実家にそんな余裕はなかったから、親の言うまま仕事に就き、家庭に入った。早く自立(当時は結婚することだと思っていた)したかった、と言っていた。
母はどういう縁か、呉服店の次男と結婚した。私の父である。
呉服店は長男が継ぐことになっていたので、父は公務員になった。
母は洋裁は好きだが、特にお店で働きたいとは思っていなかったし、公務員の父と結婚して好きな服を縫えることには喜びを感じていたらしい。
子供が生まれて、縫ったり編んだり、それはそれはたくさんの子供服を作った。
妹が生まれるころ、ちょっとした事情で父の実家に期間限定で同居することになった。
母の腕は、実は確かである。
娘の私が言うのもなんだが、凄い。
縫い目の綺麗さなどはうっとりものである。
呉服店店主夫人であった父の母、つまり私の祖母がそれを見逃すはずがない。大きな店ではなかったが、戦後の物のない時代から高度成長期にかけ、それなりに繁盛していた。
祖母は母に繕えとか仕立てろとか言い立て(田舎なので言葉がぶっきらぼうなのだ)、母は店の仕事を少し手伝うことになった。
母は本来、そういった仕事は嫌いではないのだと思う。
ただ、幼児ふたりを抱えて、ひとりは乳飲み児で、家事も店も仕立てもでは、具合も悪くなろうというものだった。
タイミング次第では、もしかしたら母と祖母は義理の仲ながら、案外楽しく店をやれたのかもしれないな、などと妄想することはたまにある。
三代目になる予定だった伯父は商売向きではなかったようだ。
伯父は別の仕事を選び、二代目の祖母の代で呉服店は終いになった。
時期が来て、父母は父の実家を出て、晴れて我が家と呼べる戸建ての家に引っ越した。
幼いころ、私と妹の服はいつも母のお仕立てで、おそろいで、色違いで、幼児期の写真はみんな、そんな感じだった。
高度成長期の量産の時代になると、既製服が安い値段でどんどん売られるようになった。小学生のうちは、母のお手製を当たり前と思って着ていたが、次第に友達の着ているものや雑誌などの既成の可愛い洋服に憧れた。
ないものねだりとはよく言ったものだ。中学生になるころには、姉妹は母のお仕立てに不満を言った。
母はよく、娘たちの選んだ既製服の縫い目をひっくり返しては「こんな風にできてるのね」「こんな縫い目でも売れるのね」「ひどいまつり縫い」と言って少しため息を吐いた。
家には時々『レディブティック』があったが、母は毎号は買っていなかったようだ(たぶん高かったから)。
気になったパターン(型紙)がある時などに買っていたようだ。
私は子供心に、付録についてくる型紙や、編み物の編み図を見て、どうしてこれがワンピースやスカートや帽子になるのかと不思議だった。複雑怪奇な組立図にしか見えなかった。
これが一枚の布にあてがわれ、裁断され、プリーツや、ボックスプリーツ、フリルやタックを施されたお洋服になる。
凄いなぁと思ったが、私には母の器用さは1ナノミクロンも遺伝しなかった。
ちなみに母はレザークラフターでもある。
手先が器用なのであらゆる工芸や細工が(下手をすると教えてくれた人より)上手いのだが、母が特にハマったのが革細工、アメリカンレザークラフトだった。
1970年代に主婦層を中心に爆発的人気を誇った手工芸なのだが、しばらくすると下火になった。道具や材料と言ったコストもかかるし、材料を置く場所もいる。作品も大掛かりなものになると「鞍(馬の背にのせるアレ)」や「牛一頭ぶんの大きさの革にカーヴィングで描く作品」など、どこに置くんですか、という規模になる。さすがアメリカンだ。
しかしなによりも、結構技術を習得するのが大変だったようだ。
なかなか続けるのが難しい趣味なのだが、母はがっつりハマった。
大きい作品は作らなかったが、小物は量産した。革の切り出しからカーヴィング、モデリング、縫い合わせと、かなり本格的に学び、講師の資格もとるほどのめりこんだ母だが、最近は「トントンするのが疲れてしまって。目も悪くなったし」と、革細工のほうはあまりしなくなっている。
そしてこれまた、母の全盛期の作品はすごいのである。
人にも教えたし、作って欲しいと頼まれることもあったが、これも材料費プラスちょっと、くらいしかお金をもらわない。
へたをすると、あっさりあげてしまう母なのだった。
さて。
洋裁に戻ろう。
そんなわけだから、生地や糸が、家には山のようにあった。
ボタン糸やミシン糸などこまごましたものがずらりと色とりどりに並んでいたし、人台(トルソー)も大きな姿見もあった。生地は一反単位で何反も重ねてあった。
口コミで人から頼まれるとワンピースやスカート、スーツ、なんでも作った(レザークラフトでバッグなども)。
買い物に行くと、きまって材料を買いに手芸店に寄るのが常だった。今はこのご時世で旅に出られないが、旅先でもそういう材料や小物に目がない。
私が大学生のころ、市内のお金持ち向けブティックのお直しを請け負っていたことがある。ほとんど二束三文のような金額で請け負ったので、契約した店からはドサドサお直しの服が届き、部屋がひとつが埋まるくらいだった。
こんな金額ではなく、正規の金額をいただくようにと家族で説得したが、母は「そんなお代いただけない」といってどうしても値上げができなかった。人が良く商売には不向きだが(だから祖母とはいいコンビだったと思うが)、腕はかわれていたのだと思う。というか、あたら才能と技術を便利に使われてしまったのだろう。
実際当時は、大学生の私への仕送りにもお金が必要だったはずだ。
それを思うと肩身が狭いが、いまでも、内職みたいな感じではなく、どうせならお直し屋さんとしてちゃんと商売すればよかったのにと思う。
そもそも、お仕立て屋さんをすればよかったのだ。
でも、そうさせなかったのは私たち子供の存在だっただろう。
時代的にも、母の性格的にも、起業することなど考えられなかったのに違いない。
だからあまり、そんなことは言わない。心の中だけで言っている。
今、言ってしまったが。笑
娘たちが結婚した後は、洋裁を教えている。
いち時期は生徒さんも多かったが、後期高齢者となり、手元が見えにくくなったりと不便が生じるようになってきたからと、現在はお友達のようになった生徒さん何人かに絞っているようだ。
教室をしていた時もびっくりするほどお安い月謝だったが、今は「友達だから」とお菓子代くらいしかいただいていないらしい。
まったく母らしい。
幼いころの記憶の中の母は、とにかくいつも、ミシンを踏んでいる。
昔の、あの、ジューキのミシンだ。
レトロなインテリア特集で出てくるようなあれ。
時代とともに、電子ミシンになっていったが、母は動く限り足踏みミシンを併用した。足踏みのコントロール自在な感じは、どうしても電子ミシンには出せないのだと言っていた。
そのミシンを、先日、片付けで手放した。
もうどうにも動かなくなり、修理もできなくなったからだ。
あっ。でも大丈夫。
電動ミシンはあるんですよ。
そばにアイロンとアイロン台も常駐している。
母は、いつも何か手を動かし、作っている。
ちくちく、とんとん、ざっざっ、ガチャガチャと、静かに座っていても何か音がする。
仕事をし続ける母である。
そして三度の飯より、やっぱり手仕事が好きなんだね、と思う。
今は、お友達とお菓子を食べて談笑しながら、好きな縫物を、好きなだけしているようだ。
そして私は今日も、タケチさんの記事のなかの様々な衣装に、それを作った人の姿を想像する。縫う人の、その横顔を。
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