鎌倉ほのぼの散歩 行こう坂東の子らよ【旗上弁財天】
前回までの「鎌倉ほのぼの散歩」は…
「受験応援回」を別にすると、昨年暮れに投稿したこの記事が最後。
もっ…のすごく中途半端なところで終わっています。
本来ならその続きを書きたいところなのですが、今現在はまだまだ、受験の真っただ中。記事の続きは、もう少し控えておきます。
二月下旬の今の段階。
中学受験の方々は、お疲れ様でございました。
高校受験の方は私立を頑張っているところでしょうか。
公立や大学受験の方は長丁場が続いていることと思います。
長引く新型感染症蔓延の影響からか、門前の事件や痴漢扇動ツイートなど、人心が荒んでいるような気がしてならない事件がいくつも起こり、心を痛めております。ただでさえ心穏やかでない受験期を、戦々恐々としながら耐え忍んでいる方々がたくさんいらっしゃると思います。
どうか本番に、落ち着いて本来の力が発揮できますように。
心からお祈りしております。
そのようなわけで今日は、『鎌倉殿の13人』のお話をしようかと。
鎌倉を歩いていると「ここで旗上げ」「必勝を誓った」というような寺社も多いのですが、とにかく「○○氏がここで滅亡した」「ここは○○を弔う菩提寺」という寺社が、滅法多いのです。そればっかり、といっても過言ではありません。
それもそのはず鎌倉は、頼朝の一族(頼朝の血族というべき?)と北条氏が滅亡した都市。
鎌倉殿発祥の地でもありながら、1185年(諸説あるけれど今の教科書はこれ)から1333年までのおよそ150年を駆け抜けた頼朝と北条氏の歴史に終止符が打たれた場所でもあります。ちょいと敏感な人なら夜はなるべく行きたくない、血生臭い場所でもあるのです。
今回大河ドラマの主人公が「北条義時」と聞いたときには、「へえ、これまでは何が何でも鎌倉幕府=頼朝だったのに、ひと味違うのね」と思いました。そもそも「幕府」と言わないのがいいなと思いました。確かに征夷大将軍となったのは源頼朝ですが、それは身分の高い人にしか官位をくれなかったから。あくまで”力”は西に在ります。それ以後室町・戦国に続く「西に対する東の勢力」の礎を作ったのはなるほど、政子と義時なのかもしれないなと、奇妙な納得感がありました。
どうでもいいんですが、「烏帽子」ってどの時代あたりまでかぶっていたのでしょうね。「烏帽子」を捨てたときが日本人が「呪縛」から解放された時なのかもしれない、と勝手に思っています。基本「上から下」に賜るものですからね。「朝廷が上だという概念」がある限り存在する、というか。
戦国武将だって元服では被っていたし、冠位をいただいたら被ります。でも元々は、出生の身分が低かったら偉くなってもいい冠位なんて絶対もらえないものでした(北条氏はそれで征夷大将軍になれなかったという説も)。戦国時代になると日常生活では被らなくなり、官職そのものの比重も軽くなって、農民出身の秀吉が冠位最高位の関白になっていますが…
歴史の授業で、平安時代はともかく、鎌倉に入ると全然、納得感がありませんでした。
鎌倉時代は武家政権誕生、と習います。でも確かに政治は武家が担いましたが、結局宣旨や院宣、綸旨みたいなものが幅を利かせていたわけで、「上の人」は我々のためによきにはからえ、って思ってただけじゃん?征夷大将軍だって天皇が任命するわけで、さらに言えば頼朝の家は寝殿造りだし、娘を天皇に嫁がせようとしたり、結局清盛と同じように「院政」したかったんじゃん?頭の中は貴族じゃん?
じゃんじゃん謎だらけでした。
じゃんじゃん言ってる割りに私も関東出身じゃないんですけど。笑
そんなわけで長い間鎌倉時代に興味が無かったのですが、ある時何気なく読んだ本に、たちまち興味を喚起されました。
あちこちで勧めまくっている本なので、シミルボン👇にも書いちゃってます。内容にダブりがありますが、シミルボンのほうがしっかり書いてます。
中世と絶妙に相性がいい【町田康】(読書サイト「シミルボン」より)
どうしてこんなに「ギケイキ」に刺激を受けたか、というと、私がそれまで持っていなかった視点をくれたから、というひとことに尽きると思います。
歴史の端的な事実だけを列挙したものよりも、はるかに生々しい、活き活きとした「人間」の視点を与えてもらった気がします。2021年に3巻が出る予定でしたが、まだです。待ってます。
「ギケイキ」ファンとしては、ドラマの中で義経がどのような描かれ方をするのか、興味津々です。
ところで、先週の『鎌倉殿の13人』。
印象的な場面がありました。
戦に負け、命からがら真鶴岬から船に乗って房総半島を目指す頼朝たち一行。丸木舟を手漕ぎで、水をかき出しかき出し、必死の東京湾横断です。桶で水を汲みだしていた頼朝は、ふと、桶の中の水に、後白河院の顔を観ます。うわぁと叫んで急いで水を海に捨てる頼朝。
これ。占いです。
満月の夜、桶にはった水に映るもので占う、当時わりとポピュラーな占い方。頼朝の後ろにいた家人が「あまり水をみないほうがいいですよ」と忠告するのも道理なのです。ちゃんと満月が映り、演出細かいなと思いました。笑
鎌倉時代の人々は、現代人には信じられないほどスピリチュアルなことを信じています。それはそうです。理屈で説明のつかないことを、なんとか納得しながら生きるしかないのですから。現代人も、未来人から見たら信じられないことを信じてる、と驚かれるかもしれませんけれども。
現代は「科学教」みたいな時代ですが、だからって科学の力でもどうにもならないことはあります。人間はずいぶん延命できるようになりましたが、それでも生まれたら必ず死にますし、命を理不尽に奪うものは存在します。誰もコントロールできないことは、まだまだある。
とにかく当時の夜の闇は恐ろしいほど深いです。病気になってもせいぜい薬草などでなんとかするしかなく、ただただ回復を神仏に祈るしかない。三郎(宗時)のように、道中で何かあって帰らぬ人となっても、それを伝達する手段も、探索する術もないのです。写真もないし。だからこそ、本人証明のために首を取るわけです(でも時間がたったらもう誰が誰だかわかんないんじゃないかと思うんですけどね…)。
八重役の新垣結衣さんがインタビューで話してましたが、カメラが高感度なのでテレビの画面はとても明るいけれど、実際の現場は怖いほど真っ暗なのだとか。お互いの顔が見えない中で演技してる、と。それを聞いて俄然観る気になったのですが、実際夜の場面など、視線が合ってない感じがして面白いです。
同じことばでも、我々が想像するものと、彼らの概念は全然違います。「道」といったら舗装されていようがいまいが、平面が直線・曲線的に続く「道」なんだろうと我々は思いますが、当時は歩けるところは「道」。山だろうが谷だろうが。鎌倉古道には獣道みたいな道も多いと言います。治水されていないところだらけで雨が降ったら川が渡れない。だからこそ自然の要害というのが成立するわけで。
川や山や海といった自然の地形に阻まれ、当時の坂東武士たちにとっては鎌倉に来いなんて簡単に言うなという感じだったと思います。言葉も、手紙も、重みが全く違い、何事においても時間がかかるので、現代人とは時間感覚も違います。
神仏にも真剣に祈ったし、夢も、占いも、生活の中に溶け込んでいます。夢や占いを「決定的証拠」にしたりもします。ドラマの中でも、頼朝は夢を自身の行動の根拠にしますし、観音様とってこーい!と無茶を言います(確か史実では髻の中に隠していた観音様に道が開けるように必死に祈った、ということだけだったかと)。頼朝の前妻の八重が政子にわざわざ夢でマウント取りに来たのも、それを政子がマウント返ししたのも、当時にしたら真剣な話です。ネタではありません。
それにしても、八重さん可哀そうだったな…たぶんあの日彼女の心はズタズタになった…夢マウントで負けたけど、たぶんそれが本来の目的じゃないからどうでもいい。とにかく自分の子は男子。政子が産んだのはまだ女児ひとり。勝てる。そう思っていたはずが、寺にいるはずの子は既に何年も前に亡くなっていた。家人に下賜され、北条を見張らされ、耐えがたきを耐えたのにこんな悲しいことがあるだろうか…
ってか、あの殺し屋「善児」怖い…
善児なのに全然良い子じゃないよ…
今回の『鎌倉殿の13人』には、細かい演出による「当時のリアル」な感じ(あくまで感じ。当時のリアルなんて誰も知らない…笑)がよく出ていて、面白いなと思っています。ちょっとだけ警戒心を抱いていた三谷作品でしたが(笑)、今回は楽しんでいます。
ちなみに記事のサムネイルは「旗上弁才天」さんの旗。鶴岡八幡宮の敷地内にあります。この白旗は源氏の旗で、この弁財天さんは池に囲まれています。もちろんこちらもお参りし、御朱印をいただいています。普段は白い鳩がたくさんいる、静かなお社です。
源氏池と平家池があって、源氏池に島は3つ。平家池に島は4つ。なぜかというと、「源氏には産(三)を!平家には死(四)を!」と政子が平家滅亡を祈願したから。そう書かれた看板があります。看板読むたびに「こわ…政子こわ…」と思いますが、まさに悲願だったのだろうなと思います。そこはかとなくラ・マルセイエーズが似合う…(なんかタイトルをそれらしくしてしまった)。
鶴岡八幡宮は見どころいっぱいなので、いつか鶴岡八幡宮回を設けたいと思っています。若干、怖いところでもあるんですけどね。階段上るたびに「このあたりかな、このあたりかな」と思ってしまいますね。あ、実朝さんが暗殺されたところですが。
だんだん「ほのぼの散歩」じゃなくなるからやめて…笑
先週のことを記事にしたので、あんまり精査しないで今日の放送前に急いで出します。笑
今後の展開が楽しみです。