もしもピアノが弾けたなら 実家の片づけ④
GW明けに、ピアノを売ることになっていました。
例の片づけの前に、妹が手配していて、やり取りの末、GW明けに引き取りが決まりました。
前々から、売ることは家族で相談していましたが、両親が了承して決定したときに、セイラから私に連絡が来ました。
「結局、使ってたのはお姉ちゃんだからさ」
使っていた、と言っても、私がピアノを習っていたのは中学までです。
我が家にピアノが来たのは、小学校四年生の時だったでしょうか。
それは突然でした。
昭和の夫婦は、何か買い物をするときに子供に相談するようなことは基本的にありません。
娘が音楽を習っている → いつかはピアノを買う。
という、不文律のようなものが存在し、それに従って購入に至ったという感じでした。
確かに小学生になってからは、音楽教室に通っていました。
最初は妹も音楽教室に行ったのですが、妹は最初からあまり好きではなく、別の習い事がいい、と早々にやめていました。
セイラはその辺、昔からハッキリしてたので。
電子オルガン「エレクトーン」は既に家にあったので、さらに高価なピアノを買う、となると、これは夫婦にとって相当な覚悟をした買い物だったと思います。
1970年代後半から1980年代、習い事が庶民に浸透してきて、子供に何を習わせるかというのが、親たちの最大の関心事だったように思います。
珠算、習字、体操、音楽、野球…
親たちの世代にとっては、そもそも教室がない、あっても高額でいい家の子しかできない、そんな、したくてもできなかった「習い事」です。
高度成長期のいま、手が届くようになった。
子供たちに、習い事をさせてあげられる。
ちょっと我慢すれば、月賦で高価な物も買える。
そんな夢のような時代が来ていたのです。
当時は相当数の子が、音楽教室に通っていたような気がします。
私は、熱心な生徒ではありませんでした。
嫌いではなかったですが、ピアノを弾きたくてたまらない、と思ったことはありません。
小さな手で弾ける曲はたかが知れていて、たいして練習もしないので、うまくもならず、ただ、毎週行くところがあるから行っている、という感じでした。
東京から来た従姉妹が見事に弾いてくれるのは楽しみでしたが、我が家に来て弾いてくれたのは1度か2度。
従姉妹が奏でるエレクトーンを、「いつもと同じものとは思えない」と思ったのを覚えています。
ピアノが来た日は、やっぱり嬉しかったです。
はしゃいで、何枚も写真を撮りました。
本格的にピアノ教室に通いはじめた頃でした。
ピアノの先生の家は、大きな洋館で、物語に出てくるような家でした。
エントランスも広く、そこを入ると大きな吹き抜けの洋間で、グランドピアノが一台、置いてありました。
若い女の先生は、熱心でしたが、真面目なぶん厳しくて、例によって飽きっぽい私は、早々に嫌になってしまいました。
家にピアノがあるのに練習もせず、ピアノの日になってやっと
「今日、ピアノだったっけ」
と思い出すほど。
「練習してない。また怒られる。嫌だなぁ。ちゃんと練習しなくちゃ」
と、その日だけは思うのですが、教室に行って帰宅すると、もう忘れてしまって、次の週まで練習しないというパターン。
両親は、娘が練習熱心でないのにとっくに気づいていたでしょうが、毎日厳しく練習させることもありませんでした。
最後の発表会の時は、ベートーベンを弾きました。
忘れもしない、ベートーベンのソナタ20番。
子供の発表会曲の定番的な曲です。
6年生になっても1オクターブに指が届かなかったので、先生が音符を疎抜いてくれました。
当時は音源が先生の弾いてくれる曲のみで、カセットテープやCDで原曲を聴くということはありませんでした。
正直、あまりちゃんと楽譜が読めないのに読めているふりで、適当に耳コピで誤魔化したりしていたので、いろんなところがあやふや。
先生の指導はどんどん厳しくなっていきました。
それなのに、「ショパンを弾いてみたい」などと言ったので、怒髪天を衝いた先生。
「あなたにショパンなんて絶対無理。あなたみたいな性格の子には、ベートーベンがお似合いよ」と言ったのが、今でも忘れられません。
いやそれ、ベートーベンにすごく失礼だったと思うんですが!
私はショパンがどう、ベートーベンがどう、というのもよくわからなかったので、なにより好きだと思った曲を弾いてみたいと言ったことを全否定されたことがショックでした。
まあ、そんな子だったから、先生も怒るんですけどね。笑
よく知らないくせに、練習もまともにしないくせに、ぬけぬけと、ということだったと思います。
当時、『ドカベン』という漫画がありました。
(そういえば水島新司さん、今年に入ってから亡くなられたのでしたね)
常に隙あらばと漫画を読んでいた私。
どこでだったか、ドカベンの単行本を読む機会があり、それがたまたま「とんま」こと「殿馬くん」という男の子が、ピアノを諦めた回想回でした。
殿馬くんはピアニストを目指していたのですが、指が短くて弾けない曲(たしかショパンの「別れの曲」)があり、指の水かき部分(指の股部分)を手術で切除した、というエピソードがあったのです。
結局それでも夢破れ、その後、主人公山田太郎と出会い、転校して野球に目覚め、変わった打法で打ったり(白鳥の湖のようにクルクル回って打つなど)、その打法に音楽の名前が付いていたり、リズムや呼吸を音楽的センスで測ったりといった特異な才能を開花させた、という話だったと思います。
その話は、小柄なうえ手も小さく、オクターブどころか、シにも届かないありさまで、他の子が軽々と弾ける曲が全く弾けなかった私に、強烈な印象を残しました。
のちのち、実はショパンも手が小さくて、手指と手首の柔軟さが格別だったと知りました。
それは練習の成果だったとも。
私には、手が小さいというハンディを克服してもピアノを弾きたい、という強い気持ちがありませんでした。
結局、なんだかんだで発表会では悲惨なベートーベンを弾きましたが、私の中ではピアノへの興味や関心が急速に失われていました。
その時弾いたベートーベン。
大人になってCD音源で素晴らしい演奏家の「ピアノソナタ20番」を聴き、初めて「ああ、本当はこういう曲だったのか」と知りました。
私が発表会で弾いたのは、よく似た練習曲みたいな出来でした。
今更だけれど謝ります。
ベートーベンさん、およびピアノを弾かれるみなさん、すみませんでした。
とにかく、それを機に、ピアノを続けるのが苦痛になってしまいました。
もう、やめたい、と親に言いました。
ところがそれから、約十年後。
とある事情から、小学生の合唱の伴奏をすることになってしまいました。
詳しい事情は割愛しますが、断ることのできないミッションでした。
「気球に乗ってどこまでも」。
こちらの本番も、今でも穴があったら入りたくなるような演奏だったのですが、さすがにこの時は必死に練習しました。
我が家のピアノでも、それまで一度もそんなに弾いたことがない、というくらい弾きました。
あの演奏が何とかなったのは、ひとえに、あのピアノがあったおかげ。
思えば、あの時がピアノとの密月だったのでしょう。
それから、結婚して家を出て、それっきり。
洋間にひっそり置かれたままになりました。
子供が小さいころ、実家に帰省した際、少しだけ子供とピアノを弾いたことがありました。
調律もしていなくて、少し音が怪しくなっていましたが、子供は喜びました。すぐに飽きてしまいましたが。
ママ弾いて,と言われて、辿々しいメヌエットを弾いたかもしれません。
たーべーよー
たーべーよー
おいしい ぶどうの パンたべよー
というのと、「かえるのうた」を子供と弾いたのが最後だったと思います。
鍵盤の上に赤いフェルトの布を敷き、フラップをパタンと閉じました。
あの時、ふとよぎった寂寥感。
それは、そろそろ売ることを考えなければと思った自分に対して、だったのかもしれません。
今回、買取に出して、あのピアノはきっと、本体そのままか、部品でかはわかりませんが、また生まれ変わって、誰かに弾いてもらえるはずです。
そう、信じたいと思います。
ぎりぎりまで、ピアノを売りたくない、と言っていた父。
娘が手放すというのなら、そして、弾かれもせずただ置いてあるより、誰かにまた弾いてもらえるのならと、売ることを承知してくれました。
先日の電話で、
男性ふたりで来て、手際よく運んで行ったよ。
上手いこと器用に運ぶもんだ。
と言っていました。
以前、「子供にピアノを習わせるというのが、夢だった」と言っていました。それは母にとっても同じ夢だったそうです。
子供の頃憧れたピアノ。
娘が弾いてくれるのなら…
その思いに、全然応えられない娘で、ごめんなさい。
でもピアノが家にあったから、少しでも齧ったから、わかった世界がありました。
貴重な体験をさせてくれて、ありがとうございます。
そしてピアノ。
沢山弾いてあげられなくて、
上手に、綺麗な曲を奏でてあげられなくて、ごめんね。
私は今、ピアノを弾く人も、ピアノ曲も、ピアノにまつわることがとても好きです。
クラッシックも良く聞きますし、藤井風さんの演奏にはうっとり。なんならYouTubeで「ゆゆうた」さんだって観てます。笑
聴く専になっちゃったけど、でも、ピアノを好きにしてくれたのは、やっぱりあのピアノ。
今ここで、お礼を言わせてください。
いままで、本当にありがとう!
生まれ変わったら、どこかで誰かに、いっぱい弾いてもらえますように…