永久の未完成
チャレンジ、という点で、この半年余りは我ながらかなり無謀な挑戦をしてきたなと思う。
50過ぎて何やってんだこんなこと、ムリムリムリムリ絶対無理と言いつつ、内心で「チェストー!」「キエーィ!」「ゥアチョー!」といった奇声を発しながら、気づいたら「チャレンジが常態」になっている。
そのせいか今は「春だから」という理由でチャレンジをする、という感じでもない。とはいえ、「春」というのがチャレンジに相応しい季節だということに異を唱えるつもりもない。
春は喜びに満ちた、新しい季節。
ほんの少し切なさを秘めた門出の時。
目標を定め挑戦していくのにふさわしい、節目だと思う。
3年前は春になっても心から喜べなかったし、何もできずに家に閉じこもるしかなかった。でも考えようによってはそれも人類にとっていまだかつてないチャレンジではあったのだ、と思う。
ウイルスに挑まれたからやむを得ず「新しい生活」にチャレンジせざるを得なかった。そうしてみると何かに挑まれてこそ、挑戦する心というのは奮い立つものかもしれない。
試験があるから、勉強する。
締め切りがあるから、プロジェクトを頑張る。
地球が放射能に汚染されたから、イスカンダルに旅立つ。
今、何かに挑まれているわけではないのだが、自分なりに形=WEBサイトを作ってしまったので、そこに今度は中身=作品を充実させていく必要に迫られている。
チャレンジというのは、し始めると次から次に「必要に迫られて」行くようだ。自分のやったことに挑まれていく、というか。
私の場合、ソフトはほぼ過去作品で、今はそれをまとめていくことに心血を注いでいる状態だ。
しかしこれは、挑戦しているようで挑戦していない状態ともいえる。
まとめているだけというのは、無理やり仮の完成としてピリオドを打っているだけの状態なのだと思う。
新しい道を切り開くなら、新しい作品に挑戦しなければならないし、過去作品であっても、何度も何度も読んで手直しし続けるべきなのだろう。
謙虚に初心に立ち戻り、もっとよくなるように精進していくことこそ、大切なことなのだと思う。
スポーツだろうと芸術だろうと人生だろうと同じ。
今より少しでも良くしたい。
創造とは、きっとそういうことなのだと思う。
と、宮沢賢治は言った。
宮沢賢治は読み始めたら最後沼だ。いくら言葉を手繰っても、全然全く読んでいない、読めていない、何もわからない気分になるものだ。そういうときは、この言葉を思い出す。
答えは出ないし、出なくていい。
プロセスのみがあり、厳密にいえば完成というのは存在しない。
人間として生まれたからには死ぬまで挑戦し続けるのだ、という意味なのだと私は思っている。
まあそれはいいとして、結局じゃあみらっちはこの春何にチャレンジするつもりなのか、というと。
私にはnoteの中で「投げっぱなし」の記事が結構ある。
そういえばマヤはみつかったのか?
ところであれからお痩せになったんですかい?
その後の服問題、どうした?
結局犯人は誰だったのか⁉
「サバランさん同好会」のまとめ記事もある。
こちらはでも、時折、同好会会員さんが興味深いサバランの記事をあげてくださっていて、正直、ご紹介したくてうずうずしている。
「のんびり鎌倉紀行」も、細々ながらときおり空ちゃんと出かけているし、「実家の片付け」も、そろそろ再開の予感だ。
春は、引き続きソフトの充実に重点をおきつつ、少しずつそれらを回収していくことにしようと思う。
永久の未完成これ完成、を心に刻みつつ。