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Fan letter 15 ゆりやんと旅をする木と生命力☆アヤ・ナカムラ

 偏光さんの記事を読んで、グリオのことを思い出し、連鎖的にアヤ・ナカムラのことを思い出した。

 偏光さんの記事は、大阪は吹田市万博記念公園内にある国立民族学博物館で行われている『吟遊詩人の世界』の紹介だった。世界各地の吟遊詩人にまつわる展示が行われているという。

 思いだした、と言ったけれど、彼女はもちろん昔の人ではない。それどころか、今を時めくフランスのアーティスト。今年のフランスオリンピックでは開会式でもパフォーマンスを披露した(それについてネットではいろいろなことが言われているが)。
 世界で最も曲が再生されているアーティストのひとりだ。
 「ナカムラ」は、米国ドラマ「ヒーローズ」に出て来たナカムラという日系人にちなんでいる。日本とは関係がない。
 西アフリカマリ共和国のグリオ家系にルーツを持ち、母は現役のグリオとのこと。グリオとは、西アフリカの口伝伝承の音楽で、先祖の物語を口伝えに伝えているものだ。以前、グリオの特番のようなものを観た時は、グリオは特別な家系が継ぐ一子相伝であり、男性しか継承できない家系もあると言っていた。

 ただ、私は一時期ほどは最近のアヤ・ナカムラを聴いていない。そもそも、彼女のことを良く知らない。

 コロナ禍、初めて聴いたのはご多聞に漏れず『Djadja(ジャジャ)』で、アルバム『AYA』の頃はぐるぐる聴いていた。

 藤井風を初めて聴いた時も私のメーターが強く反応し「こいつはヤバい。新しい世界がきたぜ」と息子になぜかハードボイルドに伝えたが、アヤ・ナカムラのときもメーターが振り切れた。彼女は、藤井風とはまた違う「新しい世界」を私に運んできてくれた。
 閉塞した時空間に閉じ込められながら、藤井風とアヤ・ナカムラを聴いていた。私にとって彼女は、コロナ禍の思い出の人なのである。
 
 アヤ・ナカムラには自分が生きて来た世界と、全く異なる世界を感じた。それは私にとって、異国のエキゾチックな、いかにも多様性を象徴したように見せながらドメスティックな、でも決して自分と相容れることのない新世界。

 少し前、私が良く見る『あさイチ』という番組にゆりやんレトリィバァさんが出演された。彼女が米国のオーディション番組に出たときのことが話題になり、どういう気持ちだったのか、と問われ彼女が言ったことが忘れられず、以後わたしの座右の銘になっている。

 太平洋を泳ぐイルカには
 わたしがしていることなんて
 何の関係もない

byゆりやんレトリィバァ

 そう思えば何でもできる、とゆりやんさんは言ったのだった。

 凄いと思った。それはまるで写真家の星野道夫さんが『旅をする木』で書いていたことと同じだった。
 私は、以前書いた記事でこのように書いている。

 星野さんは、全てのものに同じ時間が流れていることを殊更に大切にしていた。今私たちがこうしている間にも、大海をゆうゆうと鯨が行き、潮を噴き上げているかもしれない。日々の暮らしの中でそのことを意識できるかどうかは天と地の差ほど大きい、という。

 なぜこの言葉を引き合いに出したか、というと、私にとって――もちろんこれは非常に個人的な感覚だが、アヤ・ナカムラというアーティストは、いままさに大海を悠々と泳いでいるイルカやクジラのような存在を「思いださせてくれる人」なのである。

 地球上で同じ時間、同じ命を生きているけれど、アジアの片隅で50年以上生きた私の人生とは全く関わりがない。にもかかわらず、彼女のダイナマイトなボディから繰り出される音楽は、地球でたくさんの命と一緒に生きていることをなぜか感じさせてくれる。月並みに言えば、生命力を感じるのだ。さらにありていに言えば、彼女の声に励まされるのだと思う。

 癖になるリズムなのだ。
 胸がどきどきしてくる。

 ときめきかたが、『UA』を最初に聴いた時と似ていた。
 そう言えばデビューした時に妊娠中だったというのも、ちょっと似ている点だったかもしれない。

 歌詞はフランス語のスラングで、若い現代女性のあれこれらしい。ほぼ一語たりともわからないので、言葉に親和性のある人々ほどには、彼女の魅力をわかっていないのだろうと思う。ただ、リズムと声が心地よい。エフェクトが効いている楽曲も多いので、むしろ残念に思うことすらある。ライブで聴いてみたいと思う声だ。

 今回、久しぶりに検索したら、彼女の2年前のインタビュー記事があった。

 わたしは彼女のことを、楽曲でしか知らなかったのだが、生き方も潔いのだなと思った。

 とにかく、ほかの人の頭の中で起こっていることをいちいち理解する必要はないと思っているんです。私の考えを理解できない人がいるように、私もすべての人の考え方に共感できるわけじゃない。

これは真理

 最近、谷川俊太郎さんの訃報に「同じ時代を生きることができてよかった。でもついに先にいってしまわれたな」と思っていたので、同時代を輝かしい命とともに生きていることを、また思いだすことができたような気がする。

 みんなが「推し」を欲するのは、そういう気持ちからなのかもしれない。「推し」って私は、よくわからないのだが。

 偏光さんのおかげで、久しぶりに、アヤ・ナカムラまつりである。


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