鎌倉ほのぼの散歩 二十五番「浄光明寺」
前回はこちら。
先週の『鎌倉殿の13人』に関しては、今回、あんまりコメントがないです。
少しずつ「…」と思う部分が増えてきてるかなぁ、ここから盛り返せるかなぁ(自分の気持ちが)、というのが正直な今の感想。
………。
さ。気を取り直して、散歩に参りましょう。
ここから目指すは「浄光明寺」さんです。
駅とは少し方向が違うので、さっき来た道をただ引き返すわけにはいきません。
我々は満を持してナビ子を召喚。
でも「寿福寺」の時に散々してやられたので、もはや二人ともあまりナビ子を信じきることができません。
「ナビ子はこう言ってるけどさ…」
「うん。こっちの道の方が正しそうだね」
てな具合で、ナビ子必要ないんじゃ?案件となりましたが、それでもその道のりは若干、住宅地や用水路のような小川沿いをウネウネと歩くものだったので、方向だけは見失わないようにナビ子を頼りました。
さて、到着しました、浄光明寺さん。
実は、以前ブラタモリでも紹介されたこともある、見どころ一杯のお寺なのです。
門が閉まっていたので、ちょっと躊躇いながら入っていきました。
中は広く、すぐに見えるのが客殿です。
表紙に使った写真がそれです。
開基は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼と6代執権の北条長時。鎌倉時代は、北条氏の菩提寺でした。
その後、足利尊氏とその弟直義にも寄進・庇護されました。足利尊氏は一時期この寺に蟄居していたこともあったそうです。この寺で後醍醐天皇打倒を誓ったとか。
江戸時代には荒廃してしまいましたが、八幡宮などの助力で再興されたとのこと。
私はこの「狛犬型の鯱」がお気に入り。
この「鎌倉ほのぼの散歩」の契機となった出来事を書いた「きっかけ」という記事にも使っています。
とにかく境内が広いので、今回は御朱印をお願いしておいて、お参りは後になります。
客殿を左に石畳を行くと、不動明王が祀られる不動堂があります。
そこをさらに行くと、こんな立て札が。
なんですと!これは見逃せません。
正直、阿弥陀三尊像は観られなくても仕方ないと思って、拝観日時にはこだわらず来ていたので、ラッキーです。
しかしこの、「石段を上り」がなかなかのくせもの。
というのは、「登り」はその石段で終わりじゃないからなのです。
まずは、目の前の石段を登りましょう。
少し広々としたところに出ると、受付があります。
ここは、後から知ったのですが、混む時期に来るとすごい行列になるらしいです。道も狭いのでなおさら混むのでしょう。
でもこの日は、拝観者は私と空ちゃんだけ。
年輩男性のガイドの方がすごく親切に「おや、お二人ですか。ではご案内しますので少しお待ちください」と言って受付から出てきてくださって、そこから丁寧にすべての案内をしてくれました。
まずは、国の重要文化財、阿弥陀三尊像です。
もともと、ご本尊が安置されていた阿弥陀堂の隣にある「収蔵庫」というところに入っています。
写真が無いのは、たぶん撮影不可だったからです。
ちょっと記憶が曖昧ですみません。
ガイドの方が丁寧に説明してくださるので、撮影するのを忘れていた可能性もありますが、おそらく撮影不可だったかと思います(収納庫の外側は撮影OKだったと思います)。
阿弥陀三尊像は、法衣に鎌倉独特の「土紋」と呼ばれる文様があって、襞に特徴があるという話でした。
それから、敷地内にある神式のお墓が残っているのは意外と珍しいのだと、そちらに案内してくれました。
その後、その隣にある観音堂にお参りしました。
そう、ここがめざす、三十三観音様のひとつ、千手観世音菩薩様のおわすお堂です。
でも中は見られません。
外からお参りします。
そして問題はここから。
ガイドの方が、「ここまで来たら、上の「網引地蔵」様もごらんになりますでしょう?」と、もうそれは当然の流れなのだという感じにお話くださったので、私たちも「もちろん見たいです!」と言ったのですが。
山道。
しかも案外、急。
石段というか、階段と言うか、苔の間にある石と言うか…とにかくそういった山道を、上へ上へ。
スニーカーで来て良かったと心から思いました。
手すりがついているところと、ないところがありました。
「お足元気を付けてくださいね~。ああでも今日はお天気がいいから良かった。雨の後は滑りますのでね~」
というガイドさんの声に、えっちらおっちらと登りますと、ようやく開けた場所に出ました。
なんつーか、原っぱ。
うん。原っぱだよね。
そして見晴らしがよく、見下ろす町並み。
実に、いい景色です。
でもちょっと疲れていたので、写真撮る余裕なし。
網引地蔵は、やぐらと呼ばれる洞窟の中にありました。
それと、その先に冷泉為相さん(藤原定家の孫)の墓があったと思うのですが、写真がなく、実はちゃんと見た記憶がありません。
この冷泉為相さんのお母さんが『十六夜日記』の阿仏尼さん。阿仏尼さんは、実子と継子の相続問題を陳情するため鎌倉へ。その道中の記録が『十六夜日記とされています。あ、読んだことないです。笑
為相さんは、なにしろ定家の孫にして家人。鎌倉に来るたびに「ちょっとだけでいいから雅な歌の作り方を伝授していただけまいか~」と請われ鎌倉連歌の発展に貢献したり、娘を将軍に嫁がせたりして、最終的に晩年は鎌倉で過ごしたらしいです。
観たんだろうか…
観てないんだろうか…
やはり写真を頼りに思い出すしかなく、三年も経つと記憶がおぼろげ。
これは、また行かねばなるまい。うん。
この時の記憶にあるのは、とにかく「登山」した、という一点のみ。笑
さて、お寺を出る前に、気になるこちらの像。
観音様かと思いきや…
なんと楊貴妃。
楊貴妃観音、というらしいです。
こちらのお寺の山号を思い出してみましょう。
「泉涌山浄光明寺」。
この真言宗泉涌寺派総本山の「泉涌寺」は京都にあります。
こちらのサイトにはこのようにあります。
説明も格調高いのね…
「御寺」と呼ばれるこのお寺は代々皇室の御陵。
このお寺の開基は、宋に渡っていた僧、月輪大師です。
北条政子と北条泰時(小栗旬演じる義時の子・二代執権)は、この月輪大師から受戒しています。
えっ。
ちょっと驚き。
真言宗徒だったんかぃ。
でも政子さんのお墓があるのは臨済宗の寿福寺…
そう、思い出してみると、鎌倉臨済宗最古の寺、「寿福寺」を建立したのは栄西です。頼朝の突然の死のショックさめやらぬ政子さんが栄西を呼び寄せての建立でした。
栄西は二度宋に渡る…
ってなんかのタイトルみたいですが、最初は「宋」、そして次は「南宋」に渡って、茶の種と一緒に帰ってきます。
栄西は最初比叡山で天台宗を学びましたが、当時比叡山といえば、各宗派&各学問を取り揃えて学べる大学のようなところでした。
比叡山と二度の中国留学で学んだ栄西も天台宗・真言宗その他エトセトラを修めています。留学で本当はインドに行きたかったけど叶わず、禅宗を学んで帰国、臨済宗を広めました。
ところが比叡山というところは、各宗派を学ぶことはできても他宗派を広める人にはめったやたらに厳しいところ。
修行した店のレシピを持って別の看板で独立する人には容赦ない店、的な。
排除弾圧され逃げながら関東に来た、という側面もあるそうです。
まあだから、当時はまだ臨済宗は黎明期で、当然、他の宗派で受戒したってなんら構わなかったわけですね。
さて、その政子と泰時の受戒が縁で、なのかは不明ですが、こちら鎌倉の浄光明寺さんの観音像は京都の「泉涌寺」から贈られたものだそうです。
京都の楊貴妃観音像は重要指定文化財だそうで、湛海律師というお坊さんが南宋から請来した木造の観音像です。
美しく華やかな観音様。
玄宗皇帝が楊貴妃の夭折を偲んで作らせたもの、ということになっていますが、本当なんでしょうか…(どこを見てもそう書いているけど)。
美人祈願が引きも切らないそうです。
…美人って、祈願してなれるものなの…?
「楊貴妃伝説」というのもあって、「明智光秀=天海説(2020年大河の「麒麟が来る」はここに繋がりそうなラストでしたね)」、「源義経=チンギス=ハン説(これを題材にした漫画もあるとか)」と同じ様に、安史の乱で暗殺されたとされた楊貴妃が、実は命からがら逃げだして、日本に流れ着いていた、というもの。中国と日本にお墓があるそうです。
いわゆる貴種流浪譚に入るのでしょうか。
なんかみんな、色々考えるなぁ。
夢があって面白いけど…!