見出し画像

Movie 14 悪と笑い/『ソウルの春』

 韓国には行ったことがない。
 と書くと、まるで韓国以外ならどの国にも行ったことがあるような口ぶりだが、もちろんそういうことではない。
 行ってみたいと思ったことのある国はいくつもあるが、その中で韓国は行く機会がなかった国のひとつだ。

 近所、というのは厄介なものだと思う。
 好悪という意味ではない。私は田舎で育ったので、地域の連携、連帯的な共同体に組み入れられて育った。家庭と親戚と地域は絡み合い、「隣は何をする人ぞ」というのが許されない。愛想よく生きていくのは当然としながらも、陰ではいろんなことがある。そう言う意味での「厄介」である。積極的につき合いたいとか、つき合いたくない、と言ったこととは無関係に、否が応でも接触が生じて軋轢のもととなる。

 韓国は日本にとってご近所、お隣に当たる国だ。有史以来、かの国とは何かといろいろあった。日本に住み、日本の歴史を学んでいると、距離が近づいたり離れたり、あるときはこちら側が危害を加えた側だったりすることが多く、こんなにも近い国でありながら、その国の歴史について詳しく知る機会がない。日本よりもずっと長い、非常に複雑な歴史を持っているにもかかわらず、日本人には、かの国の歴史についての知識が、あまりにも少ない。

 ところが昨今のK-POPや韓流エンターテインメントの勢いは凄まじく、世界を席巻している。アジアに目を向けても、現在、日本のアイドルに憧れる人はあまりいない。十数年ほど前までタイにいたことがあるが、タイ語の先生がおっしゃることには「私は日本が好きだから、日本人向けのタイ語教室にいるわけ。それは日本のグループもいいなと思っているから。でも、だいたい、彼ら(日本のグループ)はタイに来ないじゃない。K-POPのアイドルは違う。ちゃんとタイに来てくれるし、ファンサがすごい。好きになるよね」と分析していた。十数年前のことなので、今はわからない。

 韓流、というと、日本人に最も衝撃をもたらしたのはおそらく『冬ソナ』ブームであろう。2002年の『冬のソナタ』は2003年から2004年にかけて日本でも放映されて一大ムーブメントとなった。さらに翌年の『チャングムの誓い』も大ヒットして、韓国語を習ったり、韓国に足げく通ったり、聖地巡礼をする年輩女性が続出したものだ。
 それから20年。韓流ドラマは衰えを知らない。韓流ドラマがあまりにもよくできていて、見ごたえがたっぷりなため、日本のドラマがつまらない、と言われるようにもなった。
 『冬ソナ』以後、週末は韓国で過ごす、というような人も現れて、互いの国に訪れ合うことが多くなり、たとえ国家間の関係が緊張しても、一部の人の感情が「反」「親」を行ったり来たりしても、エンタメや旅行、食を通した草の根的な交流を望む声は双方に強い。

 『冬ソナ』につづく『チャングムの誓い』が韓国の大河ともいえる宮廷劇で、その後もその手の「歴史もの」が次々放映されていることもあって、フィクションとしてではあるが、古い歴史のドラマは、日本でもなじみが深い。ドラマの中で宮廷料理や装束、官職などに触れ、敵として描かれる「倭寇」や常に微妙な関係だった「日本」という国を「古い歴史ではそうだったのか」なんて暢気に観ることもできる。

 しかし、近代史となると、完全にタブーの領域だった気がする。
 それ以上に、韓国の中でも、タブーが存在したのだと思う。そして今、それがついに、エンターテインメントとして語ることができる時代が来たのだと、今回、『ソウルの春』を観て実感した。

 今回はかなり控えめではあるが、いつものようにネタバレ込みで書くので、何も知らないで観たい、と言う方はここまでで。


 『ソウルの春』は、1979年という、45年前とはいえ生々しくリアルな時代を取り上げた2023年の韓国映画だ。繰り返すが、300年前とか千年前といった話ではない。人によっては「ついこの間」だ。
 この映画を見て私は、お隣の国のことを、あまりにも知らなかった無知な自分に驚いた。
 フィクションと言うことで違う名前にされているが、明らかに似ている風貌で示唆される実在の政治家たち。ニュースになるような断片的な「事件」などは耳にしたことはある。世界史の教科書なら数行にも満たないのではないかと思われる「事件」の詳細が、今明かされた、という感じだ。

 映画は、大統領の暗殺という衝撃的な事件から始まる。
 序盤はふたりの主人公チョン・ドゥグアン保安司令官(ファン・ジョンミン。モデルは全斗煥チョン・ドゥファン)と、首都警備司令官イ・テシン(チョン・ウソン。モデルは張泰琓チャン・テワン)の静かな軋轢が描かれる。最初は韓国の近代史に疎いと状況がよくわからないのが残念だったが、チョン・ドゥグアン率いる「ハナ会」というグループが政治に深くかかわっていることがわかってくると、俄然不穏な空気が立ち込めてきて、状況が飲み込めてくる。その時点で『ソウルの春』というタイトルからイメージしていた映画と大きく違うことに気が付かされるのだが、そんなことを考える間もなく空気がいっきに緊迫。そこからはジェットコースターだ。クレッシェンドで盛り上がっていく緊張は、最後の一瞬まで途切れない。見事な序破急、という感じで、ドラマティックな後半部だけで忘れられない映画のひとつになりそうな予感がする。

 おそらくドキュメンタリーにも似た作り方をしていて、1970年~1980年代の時代の雰囲気が、相当、リアルなのだと思う。
 キャラクターの描き方も、デフォルメはあるだろうが見事だ。チョン・ドゥグアンの狡猾さ、傲慢と冷酷。もういっぽうの主人公、自らの信じる正義と職務に忠実であろうとするイ・テシンを描く際には、健気な妻とのやりとりが挟まれる。それが流石、韓流のドラマ作りの真骨頂だという気がした。そしてもし、韓国の歴史を良く知る人が見たら、このシーンは涙なくしては見られないものだったのだ、と後から知る。この事件をきっかけに、モデルになった史実のチャン・テワンの家族は大きな大きな悲劇に見舞われるのだ。

 最後のシーンで、クーデターを成功させたチョン・ドゥグアンは薄暗く汚れたトイレでひとり、高笑いをする。はったりや運頼み、他人の犠牲も辞さないといった、必ずしもスマートな策謀とはいえない、綻びの多い計画だったにも関わらず、当時の政権の上層部が脆弱だったために手に入れた権力。

 彼は何かの発作のように、いつまでも大声で笑う。

 悪人は、笑うのだ。

 この記事で私は、「悪人はなぜ笑うのか」という謎、「悪と笑い」についの疑問を呈しているのだが、いまだに納得する答えにはたどりついていない。

 この映画では、主人公ふたりの「正義」がぶつかり合う。お互いに自らの信じるところに従い行動しているのだが、それが短時間のうちに「内戦」「紛争」「戦争」状態に導かれていく様子には戦慄する。そして「軍隊がこんなことになるとあっという間に人が死んでしまうのか」と驚くしかなかった。皆、ついさっきまで別の脅威に備えていた仲間である。

 ただ一つだけ確かなのは、この映画がチョン・ドゥグアンを「悪人」と認定しているということだ。それが、この「笑い」で裏付けられていると思う。エンタメの中で、悪人は笑う。高らかに笑うのだ。

 近年の歴史を描くときは、どっちかが悪いという話にしないことが多い。だがこの映画では、明確にひとつの「黒歴史」として描いている。もちろん、現実の世界でも今はそういう認識であるのだろうが。

 エンタメの世界では、真の敵は真の友人である。逆もまた真だ。この映画のふたりも、そう描かれているように思う。ある意味それこそが、「歴史の実録」ではない、エンターテインメント性を保つための大きな要因になっているのだろう。

 映画を見た後、普段は映画の史実とのマッチングなど調べたりしない夫が検索をかけていた。そうしたくなるくらい、真に迫るエンターテインメント映画だった。

 

 
 


 

 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?