
向田邦子によせてⅠ 『嘘つき卵』
向田邦子の遺作となった短編集『男どき女どき』のなかに『嘘つき卵』という話がある。
結婚してから妊娠するまでの十一年の間、私はしょっちゅうこの話を思い出していた。
タイトルは忘れてしまっていて、この記事を書くために確認した。そうか『嘘つき卵』という題だったのか、と思ったが、ストーリーは鮮明に覚えていて、特に冒頭の朝食の卵をめぐる夫婦の様子は、ほとんどフラッシュバックかというくらい、よく思い出した。
結婚して数年になるが子供ができず、妻は自分を責めている。周囲からもいろいろと言われたり、腫物のように扱われたりする中で、毎朝食べる卵にちなみ、自分はまるで鶏卵そっくりの瀬戸物の偽卵のようだ、と思っている。
向田邦子の筆は妻の心情をこれでもかとリアルに描き出す。昭和の話なので、夫は妻に対し譲歩しないし、いたわらない。今これを読み返すと、ずいぶん不遜な態度に思える。しかも彼には淡々とした日常の物語を覆す秘密があった。
向田邦子は恋人はいたようだが生涯独身だった。乳がんを患い、飛行機事故で亡くなった。享年四十八歳。
文庫版の『男どき女どき』の解説に、『嘘つき卵』は向田邦子にとって生前最後の短編で、この原稿をあげたあと、飛行機事故で亡くなっているという記述があった。1981年。私は解説を読むときと読まないときがあって、この解説は読んだ記憶がない。そうだったのか、と改めて思った。なにか不穏な空気感を孕んだ短編ではある。それを予感と呼ぶのかどうか。
有名な短編だが、これから読んでみようと思う人もいるかもしれない。これ以上内容については触れないが、ともかくこれは、出産する性に生まれたら未婚既婚にかかわらず一度ならず通る道の物語なのである。
2022年4月から、不妊治療が保険適用になっている。先日たまたま、このことについて特集されている番組を見た。
保険が適用になってハードルが下がった面があるが、だからといって全部が適用になるわけではなく、自己負担が増えるケースもあるらしい。また、適用になるものはある種「先進的ではない」技術であり、最新のテクノロジーに対しては相も変わらず保険適用外なのだという。
番組をみているうちに、あの薄暗い霧のような、鬱陶しい気配を思い出した。
お子さんは?
子供はいいわよ。
あなたも早く産みなさい。
女は子供を産んでこそ一人前。
子供がいない人生なんてかわいそう。
結婚して子供がいなければ暇でしょうがないでしょう。
私たちの上の世代は、男も女も平然とそういうことを言ったし、それが悪いとも思っていなかった。自分達もそう言われてきて、それが当たり前の価値観だった。
結婚している女にでさえそうなのだから、未婚の女性にはもっと恐ろしい呪いの言葉がかけられた。
今でも呪いをかけている誰かがいて、かけられている誰かがいる。番組の中でも、SNSの体験漫画などを通してそういった場面が多く紹介されていた。
いつも心の中で言い返した。
子供がいなければ暇、って子供は暇つぶしの道具ですか。
子供がいれば幸せ、いなければ不幸という価値観が不幸。
そのうちに、私は自分が呪詛の言葉を心のうちにため込んでいることに気づいた。呪詛は年月と共にどろどろと溜まり、どこにも行き場がなく、自分だけを傷つける。
『嘘つき卵』の主人公、左知子も、周囲のそういう言葉や態度にさらされる。
左知子は傷ついている。ずっとずっと傷つき続けているのに、夫の松夫は知らぬふりを決め込んでいる。検査や治療にも理解を示さない。
左知子は様々な不条理に晒されている。女であるばかりに。
私は妊娠までの十一年間、この短編を本で読み返しはしなかった。
正直な話、この記事を書く直前まで、読み返さなかった。
読み返すことができなかったからだ。
ただ、記憶の中の左知子の心情を手繰っては、苦い味を反芻していた。
ある意味、左知子は当時の私の心の友だったのかも知れない。
今回、この記事を書こうと思い立って改めてこの短編を読んだ。今読んでも全く古さを感じない。宝珠のような短編。好きな人がいたが叶わず、四十代で乳がんを患った向田邦子はこの宝珠を遺していったのかと感慨も深い。
読み進めば進むほど、左知子の思いが痛いくらいに染み込んできた。
最後のシーンのあの後で、彼女はどんな人生を送ったのだろう。
年月を経て気づく思いもある。
続きを想像してしまった。
私は結局妊娠し出産したが、妊娠しなかった・産まなかった人生を考えない日はない。
ちなみに、妊娠したら産まれる、と思う人が多いが、自然流産率は8〜15%。
人が子供を産むのは当たり前ではない。
自分が生まれてきたのも当たり前ではない。
この世には、熱烈に希望しても願いが叶わないことがある一方で、望まぬところに授かったり、育児放棄や虐待など、命を弄ぶ人さえもいる。
「産」と言うのは、科学技術が発達しても、完全にコントロールできるものではない。国を動かす人には、もっと謙虚な気持ちで真摯に対応してもらいたいと思う。法律やお金の問題は大きいが、それだけではないのだ。
番組でコメンテーターをしていた、安田美沙子さんが言っていた。
妊娠のチャンスって1ヵ月に1回じゃないですか。そこからずっと続けていこうっていうわけではなくて、そこでみんな終わりにしようって毎回思って挑んでいるはず。(中略)1ヵ月に1回のことだけど、それ以外の時もずっとそのことを考えていると思う
安田さんは、体外受精で2児を出産している。
同じく体外受精で出産したと言う別の女性は、積年の思いがかなって出産したが、科学技術に頼って生んだと言う微かな引け目のような思いはどこかにはあるのだと言う。
夫が無関心だったりすると、特に孤独に陥りやすいし、複雑な心境を、誰にも、どのようにも説明できない。
声をかける側になったら、心ある人なら、やはりどう言葉をかけていいか悩むだろう。
私は不完全なのか?
何か欠けているのか?
結婚してもしなくても、妊娠してもしなくても、産んでも産まなくても、産み方がどのような方法であっても、そんなふうに思わせない社会であってほしいと切に願う。
結婚も治療も妊娠も出産も、続けられる人がいて、諦めざるをえない人もいる。
『嘘つき卵』の時代より、技術は格段に進化して、選べる方法も多くなった。周囲の圧力も、当時や、石女と呼ばれたその前の時代に比べたら、まだましになったかもしれない。
それでも、傷つく心はどんな時代だろうが同じだ。
言葉や態度や治療で血を流し続けているのは1ヵ月に1回だけではないことを、たとえその周期が止まっても傷の疼きは続くことを、多くの人に知ってほしいと思う。
※読書の秋、フライングしたまま、突っ走っています。