自分で「頑張ってる」とは言っていけないのか?について考えてみた。
※最後ににまとめあります。かなり長文です。
結論、言ってはいけないのではなくて、『周りが人の頑張りの過程を聞いて(見る)いる余裕が無い』のだと思います。
よく、「頑張っている」と自分から言う人は残念だとか言いますが、私はこれ違うなーと思っていまして。
その理由が『生きてるだけで、充分頑張っている』からなのですよ。
自分にとって頑張っていることなのか?当たり前のことなのか?って、人によるのですよ。
これ、デリケートな話になるかもしれませんが
例えば、私達はたまたま足が健康的に生まれてきたから歩くのって普通なのですよね?
けれど、足が不自由に生まれてきた人にとっては、歩くのって物凄く頑張っていることなのです。
そんな中、足が不自由な人に対して「歩くのって普通じゃない?」と言う人の方が薄情だと思うんですよ。
私としては、自分で「頑張っている」と言う人に残念だと思うのって、この例えと一緒なのですよね。
子供の頃思い浮かべるとわかると思いますが、一般的健康的家庭では、『何ができただけで褒められた』と思うのですよ。
だからこそ、自分で歩けるようになったり、自分で服が着れるようになったり…するのですよね。
これを今度は、褒められるのではなく『自分自身で自分を褒めてできるようになる』のが『大人』だと私は思うのですよ。
しかし、中には子供の頃の愛情飢餓(つまり、褒められ不足)により、自分自身で自分を褒めることができない…つまり『大人になれていない人』が居るのですよね。
因みに、私もあんま得意じゃないです((おいっ!!w
んで、この『大人になれていない人』が、自分で「頑張っているという人」は勿論ですが、実は「頑張っていると言う人」もそうだと私は考えています。
因みに、ここで言う大人かどうかは『年齢は関係ありません』
その理由としては
『大人になれていない人』を逆に言えば『子供(精神的に)』です。
つまり、『子供を褒めることができない』から、大人とは言えないよね?
…と私は思うからです。
そして、そんな人が何故子供を褒めることができないのか?と考えますと…
きっと「嫉妬」や「プライド」が邪魔しているからだと思うのですよね。
この「嫉妬」や「プライド」の根源には、『本当は自分が褒められたい気持ち』が隠れていると思うのですよ。
それは、自分で「頑張っていると言う人」と同じように「愛情飢餓(褒められ不足)」だからかもしれません。私はそう考えるのですよね。
まさに、『愛情飢餓って風邪みたいな感染症』なのかもしれません。
とはいえ、こうなってしまうのも社会的に仕方ないなーと私は思っていまして
何せ、『学校教育そのものが成果主義』だからなのですよ。
テストがあり、実力に点数が付けられる。
そして、それに乗っかって家に帰っても親から「90点以上取りなさい」と言われる。
この親って、子供の将来のこと考えてる…というよりは『自分のプライドを守りたい』のではないかなと思います。よって、『親も大人になれていない』のかもしれません。
本当に子供のことを考えるなら、やり方は人それぞれだと思いますが、『できる事、頑張る事を褒めて、社会に出た時に恥をかかないように常識的なマナーを教える』べきだと思うのですよ。
この、常識的なマナーについては今回のテーマとは外れるので割愛しますが。
何故、褒めることが大事なのか?と言いますと、簡単に言うと『大人になった時に「頑張ることはいいことだ」と認識して、頑張れる様になる為』だと私は考えるのですよね。
勿論、人に褒められる事に依存してばかりでは難しいとは思うのは事実です。
なので、ここで言う頑張るは、あくまで『主観的』である必要があると思うのですよね。
この主観的は、人に認められる事ではなく『自分で自分を認め、納得できる事』です。
勿論、主観的な事が結果的に人に認められる事に繋がる場合もありますが、私的にそれは『天気のようなもの』だと捉えた方が楽だと思っています。
つまり、『自分が「できた!」と思うことと「人に評価される(結果になる)」ことは結び付けない方がいい』という事ですね。
とはいえ『自分で「結果に繋がる」と信じることは大事』です。
ただ、他者から評価される事に関しては、自分で頑張ってる言う人が残念"以前"に、そもそも『価値観』の問題なのですよね。
だから、評価されることとは結び付けずそれは別の話にした方がいいのです。
さて、話の趣旨を戻しますと…
「自分で頑張っていると言う人」に対してどう接したらいいのかですが
私なら
「それは凄い頑張ってるね!ただ、無理はしないでね。ゆっくり湯船に浸かって寝るのも大事だよ」
…と声を掛けます。
あ、この「ゆっくり湯船に浸かって…」の言い方は、人によって変えます。
ともかく『相手に休むことを促す』様な事を"相手目線で伝わる様に"伝えます。
これは、あくまで私のやり方なのでこればっかりが正解という訳ではありませんが。
人によっては「飲みに誘う」であったり、趣味が合う人なら「一緒に趣味のお店・施設に誘う」だったり、「一緒に何かをする」また「雑談する」とかもそうかなと思うのですよね。
人によって相性はあるかもしれないので難しいところではあるのかもしれませんが…。
私の持論ですが
自分以外の人間と関わる時点で、人は誰しも『頑張る必要がある』のだと思います。
何せ、他人である以上お互い『頑張らせ合っている』のだと思うので。
最後に『頑張りの方向性』について話をしたいと思うのですが
結論、『愛情飢餓にならなければ、頑張りの方向性間違えることは無い』と思うのですよね。
上記で、愛情飢餓=褒められ不足と書きましたが…
この褒められ不足を分解すると『あなたは生きてて嬉しい』になると思うのですよね。
つまり、『褒めるは「あなたが生きてて嬉しい」と伝える手段の一つ』だったのですね
これは人に限った事ではないと思うのですが…
人って『自分の存在を認識して貰えない時に、物凄く絶望感を抱く』のですよ。
だから、誰しも「あなたが生きていて嬉しい」と思われる必要があると私は考えているのですよね。
ただ、難しいのは…残念ながら「あなたが生きていて嬉しい」よりも「あなたさえいなければ…」の方が強いという事ですね。
これにより、中々自分自身でも『「自分は生きていて良いんだ」と思うことが難しい』のかなと思います。
それが、『最悪自ら命の灯火を消す』結果になったりするのですね。
この話も長くなりそうなので、割愛して別の機会に話したいと思います。
《まとめ》
①自分で「頑張っている」と言うのが悪いのではなくて、そもそも周りが人の頑張っている過程を聞く余裕が無い。
②「頑張っているという人」も「頑張っていると言う人を残念だと言う人」も愛情飢餓。
③愛情飢餓は社会環境が起こした感染症みたいなもの。
④人は他人に自分の存在を認識されない時に絶望する。
⑤褒めるは『愛情(あなたが生きてて嬉しい)』の一つ。
⑥愛情飢餓にならなければ、頑張りの方向性を間違えることはないのかもしれない。
でした。
読んでくださった方ありがとうございましたm(_ _)m