カラスを蹴った訴え
※これは、 太宰治 駆け込み訴え をちょっとだけ脳裏に浮かべながら書きました、しょうもない体験談です。
申し上げます。申し上げます。書き出し、太宰治の駆け込み訴えか、というご指摘は甘んじて受け入れます。本当に、カラスを蹴ったことがあるんです。あのカラスです。本当なんです。本当に、カラスを蹴ったことがあるんです。
あれは高校三年生の夏休み。学校の模擬試験をサボって、東京の私立大学のオープンキャンパスに行きました。恥ずかしいことに、その頃になっても、大学のことが、何もわかりませんでした。受験は夏で決まる!などという文句も虚空に浮いては消えるだけでした。何せ田舎の高校でしたから、致し方なかったのかもしれません。大学受験勉強の、大学、の得体がこんなにも知れないことに、こんなもののために生活を費やし続けることに、急に、空恐ろしく、馬鹿みたいに思えました。
二泊三日。八戸駅から新幹線に乗りリュックひとつで東京へひとり向かったあのJKは、勇敢な、怖いもの知らずの、阿呆でした。
そのJKは当時にしては先駆者で、スマートフォンを所持していました。ショッキングピンクのアンドロイドでした。のちにそのショッキングピンクは、北海道富良野の寒さにやられ、死にました。スマートフォンは便利でした。NAVITIMEで路線を調べ、Googleマップを開けば東京の街を歩くのなんて簡単でした。都市は機械的に構成されているオープンな空間であり、余所者をも許容する、寛大な、無関心な、優しさを感じました。
まずは私立大学のオープンキャンパスに参加しました。3校ほど見学し、早稲田大学の大隈講堂で文化構想学部のお兄さんのトークが面白かったから、これはもう、早稲田大学文化構想学部に出願しようと心に決めました。それだけ。せめて、それだけのきっかけが、動機が、欲しかったのです。それだけで、十分だったのです。
そしたら、東大の本郷キャンパスに行きたくなりました。嘘です。絶対に行こうと思ってました。ずっと憧れだった、大学です。オープンキャンパスはやっていませんでした。いつやっていたのかも知りませんでした。何も知りませんでした。それでも、ただの日常のキャンパスでもいいから、行ってみたかったのです。どうか、田舎者にも夢と憧れを植え付けさせて欲しいと、思っていました。
心の衝動のままに、緑のおおいしげる農学部の弥生キャンパスから、Googleマップを凝視して本郷キャンパスを目指しました。そして、その道すがら、忘れもしません、歩み出した右足に何かが当たりました。どすっ、と嫌な音がなりました。動作としては、何かを蹴りました。それは、ただのゴミにしては体積が大きく肉感があり、無機物ではないと思いました。スマートフォンの画面から視線を移しました。
そこには、横たわるカラス。黒い、いつもゴミを漁ってる、忌まわしき鳥類。あのカラスを蹴ったことを確認しました。
驚いた一瞬は何時も、時間が止まったようになります。心臓も止まったみたいになります。目の前の現実が一枚の写真のようになります。蹴ったカラスは動き出すわけでも飛び立とうとする素振りを見せるわけでもなく、蹴られてなお、微動だにしませんでした。死んでいたわけではないと思います。生きているような艶があったし、目が鋭かったし、絶え絶えの息が、恨みがましく、聞こえてくるように、胸のあたりが上下に動いていました。
時間にして、約一秒。嫌なものを見てしまった。嫌なことをしてしまった。嫌な感じを得てしまった。精神錯乱のなか横たわるカラスをジャンプして、驚きと動揺を静かにたたえたまま、本郷通りを駆け抜けたのです。
本郷キャンパスは歴史的な趣があって素晴らしいと思いました。この空間全体に、何百年もの偉大な先人らの叡智がどこもかしこにも染み込んでいるように思いました。何人かの大学生とすれ違いました。東大生が、レンガ調の明治みたいな趣深い建物の広がる背景に、にコラージュみたいで浮き上がっていて、美しいと思いました。
カラスを蹴ってしまいました。黒い、禍々しい、弱った鳥。ライフポイントはぼゼロの生命に最後に触れた、不可解な感触がこびりついて離れませんでした。そういえば、あんな近距離でカラスを初めてみだと思いました。気に留めて見たこともありませんでした。あのカラスはなにがあって、あんな道端に倒れていたのでしょうか。どうでもいい他人の人生に思いを馳せるみたいに、疑問に思いました。
この摩訶不思議な体験について分析申し上げます。それは、友人が多く、社交的で、明るく振る舞いながらも、心に闇を抱え、SNS裏アカウントで誰よりも強烈な病み投稿を量産する、最も恐怖する、反陽キャ、もとい、謎生物を見たときのような、そのような健全性を考えたときに決してあってはならないバランスが、あったと思いました。
このどうしようもなく不安な出来事を他人と共有したいといつも考えますが、困難を極めます。まず、カラスを蹴ったところを信じてもらえません。笑われます。馬鹿にされます。どうしてでしょうか。それ以降の話を進めようがないではありませんか。いやでも、確かに、尋常に生活をしていたら、カラスなど蹴るはずがないのです。何かがやっぱりおかしいのです。カラスを本当に蹴ったのでしょうか。それさえも疑わしく思われて参ります。
でも本当に、カラスを蹴ったことがあるんです。本当に、本当なんです。カラスを蹴ったことがあるんです。
その後晴れて東大生となり、本郷キャンパスに通うことになります。カラスは一度も見ていません。やはり、あれは虚言の妄想だったのでしょうか。であっても、光りめいた大きな威厳の前に横たわる禍々しい鳥、この嫌な不均衡な感覚を、在学中もいまも、ついには拭うことができていません。