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【東日本大震災】生存をアピールしにいったら

震災4日後には電気が復旧していたので、仕事は可能でした。ネットさえつながれば翻訳できる。「3日で2000ワード訳して」といった依頼がエンドレスに続く稼業なので、常に明日は無職のプレッシャーと闘っています。なのに気を遣われて、発災から1ヶ月になろうというのに仕事が来ません。

実家に身を寄せてしっかり充電した後、最初にしたのは東京への「営業」でした。元気な姿を見せて安心してもらわないといけません。「宝塚に観劇に行くついで」と言ってアポを入れ翻訳会社を回りました。戦闘服はお着物にヴィトン。余裕を演出です。

勇気を出して行ったイー・ウーマンの表参道カレッジもその1つ。震災以降、マインドが少し変わりました。自分なんかには遠い世界と決めつけるのは止めよう。明日はないかもしれないんだから。すると。違う世界が拓きました。

被災者枠で国際女性ビジネス会議に招待して戴いたのです。さらに。その分科会で高成田亨氏が被災地の現状を報告されていて、懇親会でお話ししにいったら、ボランティア活動を手伝ってくれませんか?とお声がけいただきました。

高成田氏は朝日新聞の元ワシントン支局長でニュースステーションの解説者だった方。震災の数年前からセミリタイアして宮城県石巻支局でのんびり奥様とお魚記者をやっていたところ発災。当日は奥様とパリ旅行中だったので免れましたが友人知人をたくさん亡くされました。石巻は死者数が4000人にのぼり最も被害が大きかったエリアの1つです。高成田さんは震災の遺児や孤児達に学費を支援するNPOを立ち上げたところでした。

私はボランティアや市民活動には、あまり興味のない人でしたがあの頃は特別。熱にうなされるように何かしなきゃと思っていた人は多かったと思います。実家に疎開してる間、後ろめたさもありAmazonで靴下を集め、留め具を外して男女別、年齢別に分けて段ボールで気仙沼に発送していました。仙台に戻ってからは何もしていなかったので、是非にと前のめりでお願いし、東日本大震災こども未来基金テイラー・アンダーソン記念基金の事務局を掛け持ちする生活が始まりました。


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