【短編小説】名もなき彼女たちのための
「いい世の中になったものね」
長く波打つ亜麻色の髪をゆるやかに風になびかせて、女がそうこぼした。
オフィス街の狭間に網の目のように広がる街路樹、その申し訳程度の緑を求めて道路沿いのカフェは席を溢れ出させる。
庇のかかったテラス席、角には二人の女が座っている。一人は長い亜麻色の髪をしたスーツの女、もう一人は栗色のまとめ髪のゆるやかなワンピースを着た女。 なぜだが周りに靄がかかったように、彼女たちの存在感は希薄である。
「いい時代?」
高貴さを感じさせる仕草でコーヒーを一口飲みながら、まとめ髪の女が聞き返す。
「ええ。とってもいい」
「なぜそう思うの?」
「見て、あの子たち」
亜麻色の髪の女がすっと整えられた指先を伸ばす。その先には木漏れ日の中、新しげなスーツをきらめかせて歩く女性たちがいる。
「あんなに得意げに歩いてる。彼女たちだけでよ」
「それが良いの?」
「だって、もう、夫や父親がいなくたって、あの子たちだけで外も歩ける。開放的ないい時代じゃない」
女たちの視線に気がついたのか、ランチを求めてビジネス街を闊歩していた女性たちが彼女らの方を向いた。
亜麻色の髪の女がにこりと赤い唇を引きあげて手を振れば、わ、と賑やかな声を立てる。そんな彼女らを見て満足げに笑う女を尻目に、まとめ髪の女は大きなため息をつく。
「何?」
「悪い癖よそれ、気に入った子にすぐ粉かけようとするの」
「失礼なこと言わないで。あの子たちがこっちを見たから応えただけよ」
「見るように仕向けてたくせに」
ふん、といかにも強気に亜麻色の髪の女が笑う。
「良いじゃない。自由な今の時代を謳歌しているだけよ」
「……あなたはちょっとピュアすぎる」
「ええ?」
「これを見なさいな」
「……本?」
まとめ髪の女が一冊の本を取り出す。分厚いハードカバーの本には何やら図形らしきものが描かれている。
まとめ髪の女が告げる。
「タイトルを読んで」
「何?……ええと、……『性差別の損失』」
「あそこに大きな建物があるでしょう。そこで売っていたの。たくさん積まれてた」
「ふうん?」
亜麻色の髪の女がページをパラパラとめくる。そのうちに、白いその眉間にシワが寄っていく。
「これを書いたのは……誰?」
「表紙に書いてある」
「リンダ。……女性の名前ね」
「女も文字を残せる時代になった。素晴らしいことね」
「うん。それはそう。それは、そうね……」
亜麻色の髪の女は空返事をしながらものすごいスピードで本を読み進めていく。うう、ああ、と呻き声を漏らしながら。まとめ髪の女はその間、行き交う人々をじっと見ながらコーヒーを飲んでいる。
日がほんの少し傾いた。午後の眠気をもよおす光が、まとめ髪の女のカップの底を照らしている。
バタン、と音を立てて、亜麻色の髪の女がハードカバーの本を閉じた。
何も言わずそのまま机に突っ伏す。
「こら、みっともないからおやめなさい」
「……へこむわ。落ち込むわ……慰めて」
「何を言ってるの、もう。ほら起きて!」
まとめ髪の女が、亜麻色の覆う頭をコンコンと指の背で小突く。うう、と呻きながら顔を上げていく。
「全然変わってないじゃない!!」
「だから言ったのよ。あなたピュアすぎるって。目の前に気に入るものがあったら、世界の全てを善だと思うんだから」
「……、変わってなかったのね……」
「変わってないどころか。あなたがこの時代になんて言われているか知ってる?」
「え?」
「ほら。これを見てよ」
まとめ髪の女がスマートフォンから、とあるフリー百科事典を見せる。
「なんて書いてあるか、読んでみて。この時代のあなたのことを説明してるのよ」
「私のこと? ええと……まずは、知恵」
「そうね。次に芸術、工芸」
「そして戦略……ん? あれ? そ、それだけ?」
「そうねぇ」
「他には!? 機織りとか、●●とか、■■とか。▲▲▲だって!!」
「ないわねぇ」
「なんでぇ!? そこも大事なところよ!」
「あなたなんてまだ良いわ、私のページ見てよ」
「ええ? どれどれ…………ええと、嫉妬深い……苛烈……悲劇を引き起こし……うわあ……」
「ひっどいものでしょ」
亜麻色の髪の女は言葉もなく項垂れ、押し黙る。まとめ髪の女が彼女の頭を撫でつつ、フウとため息をついた。
「随分ねじ曲がって伝わっちゃったのねぇ」
「伝わってないわ、これ、全然違うわ……」
「仕方ないのよ。きっとあの頃の英雄たち、哲学者たちには、これが都合がよかった」
「だとしても! あんまりだわ。あなたはとても偉大よ」
「そうね。あなたもとても偉大よ」
「そ、そうよ! それなのになんだか、これ読むと、私すごく勝手じゃない!? 何ていうか……英雄ばっかり贔屓してるっていうか」
「私なんかもう嫉妬を拗らせて四方八方当たり散らしているわね」
テラスの前の通りをスーツを着た女性が電話で何やら話つつ通り過ぎていく。二人はそれをどこか遠い目で見ている。
「あの子たちはどこへ行ったのかしら」
「あの子たち?」
「そうよ。私の衣をいつも織っていたあの子たち。私の膝に懐いて眠るあの女たち。私が助けられなかったあの女の子……彼女らが知ってるのよ、私が、機織りや、●●や、■■だって大事してるって……彼女らの味方でもあるのよって」
「きっと残らなかったのね……彼女らは、文字を書いて自分のことを残せなかった」
「文字」
亜麻色の髪の女が本のカバーをじっと見ている。女性の著者の名前を指でそっとなぞる。
「文字で残らなければ、なかったことになるのかしら」
「なかったことになったから、私たちも変容したのでしょう」
「……許せないわ」
「そうね」
「許せない!」
バン、と椅子を跳ね除けるようにして亜麻色の髪の女が立ち上がる。まとめ髪の女が「 」と彼女の名を呼びいさめるが、それに構わずに彼女はまくしたてる。
「なかったことになんてならない。彼女たちのこと、私が覚えているもの」
「私たちが覚えていても、それ以上どうしようもない。伝えられもしない」
「そうだけど!」
「昔とはもう、全然違うのよ。信仰は失われた。他になにがあるというの?」
「それは! ……わからない、けども」
「力無き私たちはもう、ただの人も同然。啓示を与えることだってない……」
「啓示……そうだわ!」
顔をあげた亜麻色の髪の女は興奮し、頬を上気させている。女は燃える目で語る。
「書けばいいのよ!」
「……は?」
「あなたが言った通り、私たち、もうほとんど人間と同じよね。でしょ!?」
「そ、そうだけど」
亜麻色の髪の女は得意げに胸を張る。
「人間なら、わざわざ啓示なんて必要ない。だって自分で書けばいいんだもの」
「ええ? そんなのって、ありかしら?」
「アリよ! それで書いて書いて書きまくってやるわ」
「私は正しくはこうでしたよ、って?」
「そうよ、私やあなた、私たち! それだけじゃないわ、あの時代を生きた全ての女たち!」
目を輝かせる亜麻色の髪の女に、まとめ髪の女はさとすように問いかける。
また、自身も何かを求めるようでもある。
「……それを書いて何かが変わるかしら? もう私たちの時代じゃないのに」
「変わる! かどうかはわからないけど……」
「わからないけど?」
「少なくても、残すことはできるわ。確かにあったのだと、私が知っている真実だと、世界の片隅にでも残すことはできる。……彼女みたいに」
亜麻色の髪の女は机上の本を取り上げ胸に抱きしめる。まとめ髪の女、それを見て微笑む。
「なんだか昔のあなたに戻ったみたい……ギラギラしてるわ」
「だって私こそが、知恵と、芸術と、工芸と、戦略と……とにかくいろんなものをひっくるめてる『女神』なのよ! ……あら?」
「あら? やだ、ちょっと権能が戻ったのかしら」
「なんか力がみなぎってきたわ! 幸先いいわね! そうと決まれば早速筆記用具を買いに行かなきゃ」
亜麻色の髪の女、伝票を持って立ち上がる。まとめ髪の女が慌てて声をかける。
「ちょっと! 何買いに行く気?」
「決まってるでしょう! 粘土板!」
「粘土板!? ちょっとあなた今西暦何年だと……ああ、もう!」
亜麻色の髪の女はカツカツと早足で店内をレジまで向かっていく。その背中を見て、まとめ髪の女はやれやれとため息をつき、彼女を追いかけていく。
後には二つのコーヒーカップだけが残され、日の光を浴びている。
平日夜も人で賑わう、オフィス街の大型書店。
新書コーナーで表紙を流し見している二人の女性が、ある一箇所で立ち止まった。ビジネス書が大半を占めるその一角に、一際異彩を放つ本が置かれている。
「これ知ってる? Xで見て、ちょっと気になってて」
「どれ? ああ、なんか表紙見たことあるかも。 何? なんの本?」
「ええとね……タイトルが面白くて、そうそう、」
『名もなき彼女たちのためのアテナ』
【あとがき】
藤村シシン先生のギリシャ神話講座を受講し、
・神話で語られている女神たちのあり方は、当時のエリート男性層によってフレーミングされて語られているものである
・当時の女神や女性を語る者には、女性によって書かれた資料が全くない
という学びを得ました。
そこから、
・当時書かれた神話の中には認められていないけど、本来はもっと異なる側面を持つ、完全性のある女神たちだったのでは!? そんな姿があっても良いじゃない!!
・本来の女神や女性、本来あったであろう別側面や、完全性を妄想して創作したい!!
という思いが燃えて書いてみました。
今の女神たちはどんな風に世の中を見ているのでしょう。
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