【短編小説】それはあまねく唯一の
天窓から柔らかな光が差し込む某図書館。近年建てられたばかりのそこは、大空間の中に大きなランプシェードのような構造体が吊り下げられ、空間を緩やかに仕切っている。明るいシェードの下でソファに座った少年が本を広げている。
ページをめくっていた少年が、ふいと顔を上げた。一人分挟んで隣には、金色の髪の女が同じくソファに腰掛け外を眺めている。本のページと女を見比べ、少年が女に話しかける。
「ねえ」
「……ん?」
「どうしてこの人、手がないの」
少年は開いていた本のとあるページを指さした。どうやら国語の教科書のようで、小さな指先は大きく載せられた写真をさしている。
「どれどれ?」
「これ。この女の人」
「これ? えーとね、」
女は滑り落ちる金髪を耳にかけて教科書をのぞき込み、文章を追っていく。少年は女の顔をじっと見ていた。
「この女の人の彫像が見つかった時には、もうなかったんだって」
「彫像?」
「そう。なんていうのかな……これ、大きい人形みたいなやつ」
「最初はあったの?」
「そりゃあったんじゃない。ほら、あったけどなくなっちゃったみたい、って書いてある」
「ふーん」
見ず知らずの他人同士の割に気安い会話をしながら、二人はページをじっと見ている。
「ちょっとかわいそう。おれが手つくってあげる」
「おお、優しいね」
「粘土で動物とかつくるの、とくいだし」
「粘土かぁ。いいかもねぇ」
「うん。この人、お姉さんに似てる?」
「そう?」
「うん」
「そうかなぁ」
「似てるよー」
まじまじとお互いの顔を見合っていると、ふと図書カウンターの方から、誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。少年がパッと顔を上げる。
「お母さん?」
「うん。これからプール行くんだ」
「良いじゃん。早く行ってあげな。これ片付けといてあげる」
「ありがとう! バイバイ」
「はい、バイバイ〜」
女は中途半端に手を振りつつ、勢いよく立ち上がり母親のもとに駆け出す少年を見送る。二人の姿がゲートを出ていくまで見守ったのち、膝の上の本をしげしげと眺めてみる。
『ミロのヴィーナス』
そうタイトルが付けられた評論の中で、腕のない女神像が彼方を見ている。手元のページをまくるたび、頭のなかの記憶のページもまくられていたようだった。
(あの日、腕の中に確かに抱きしめていたのだ)
女は思い出す。熱く赤いあの世界。
熱気と砂塵うずまく戦場だった。
倒れ伏す彼を見て、たまらずにそこまで駆け降りた。傷付かずに済むように。すべてのものから守ってあげられるように。
「腕なんてどうでもよかったよ」
対峙する勇猛な戦士たち。恐るべき男が繰り出す槍が襲いくる、その切先の鋭さを覚えている。抱きしめたその腕に槍が突き刺さろうと、肌から血が流れようと、そんなことはどうでもよかった。切り裂く痛みより流れる血より、何よりも熱いものが私の腕の中にあったから。
『アイネイアス!』
愛おしい我が子を抱き上げて、そのまま千里も万里も駆けつづけた。追ってくる戦士の槍がいくら翻ろうと、女を止めることなど出来はしなかった。我が子を庇い続けて傷だらけになった腕。それはそのまま彼女の誇りだった。
『ありのままの御姿を残しましょう』
そしてかの彫刻家は女に言ったのだ。だからそのまま、誇り高い傷ごと、息子を抱く姿を象らせた。女はあまねく人々に見せたかった。知って欲しかった。
(私があの子を愛しているのだと)
それなのに。
『ヴィーナスの両腕については、さまざまな芸術家や科学者が欠けた部分を補った姿を復元しようと試みているが、現在のところ、定説と呼べるほど成功しているものはない』
「……」
女の腕は、抱きしめたあの子は。
「一体、どこに行っちゃったの」
閉じられた室内で、ゆるやかな風が吹き抜けた。
「持ち去られてしまったのでは?」
振り向けばいつの間にか隣に黒髪の女が座っていた。彼女のことを知っている。
「サッポー! 来てたの」
かつての時代に仕えそして讃えてくれた、比類なき女詩人。彼女と、彼女をしたった生徒たちのことを思い出す。
「遅いから、迎えに来ましたよ」
「え。もうそんな時間!? ……うわぁ、ごめんね」
「構いませんよ。何やら物思いにふけっていらした様子でしたので」
サッポーと呼ばれた女がくだんの本を覗き込む。
「ああ。ミロの……。大変美しい彫像ですね」
「でも違う。本当はこうじゃなかった。腕も何もかも無くなって」
「どうやら支配者たちは貴方に、母親の権能を与えたくはなかったようだ」
「なぜ?」
「まあ、その方が都合がよかったのですかねぇ。語る力があるのはほんのごく一部の、恵まれた者たちでしたから。神とはいえ女がそう、何もかもできてしまっては具合が悪いのでしょう」
「……は! アテナがムキになる気持ちもわかる」
勢いよく項垂れた女の輪郭を美しい金髪が縁取る。その美は損なわれることのないものだが、それでもわずかに憂いが影を落としていた。
詩人は彼女を、自らの信仰を捧げた主人をじっと見守る。天地にただ一つ輝く造形の美しさよりも何よりも。主人が持つ、寄り添い、受け入れ、穏やかに導くありようこそを慕っていた。後の世にまで彼女の光が正しく届いて欲しいと、そう願っている。
ふと、天窓から注ぐ日差しが女主人を象った。春の化身が顔を上げてこちらを向く。
「今度の人生、書くものはもう決まった?」
その瞳。その輝きに満ちた金色の瞳に、いつだって詩人は息を飲まずにはいられない。
「え? ……ああ。いや、実はまだ何も」
慌てて答える。そんな様子を見て女主人はまた微笑む。
「そう。それなら、また私のこと、書いてみない?」
「それは良いですけど……どうしてまた、今になって」
「そりゃあ、悔しいから」
「悔しい?」
「失われた腕が普遍を感じさせて美しい。なるほど。そういう見方もある。うん、考え方自体はいいと思う。……でも私は、そんな美しさはいらなかった」
「アフロディテさま」
「そんなものは知らない。真実じゃない。……美しかろうが真実じゃない!」
「ちょ、お声を少し落としてください……」
慌てた詩人のたしなめもどこ吹く風、女主人の弁舌は冴え渡っていく。
「真実じゃないことが褒め称えられるより、幻滅されようが私は真実を知って欲しい。本当のことを言いたくて仕方ない! 我慢できない!!」
「おお、我らが女神が怒っていらっしゃる……図書館ですよここは……」
だんだんと語気を荒げていく女神に、女詩人はやれやれとため息をつきつつも微笑ましく思う。詩人にとって女神は崇拝と信仰を捧げる、尊く高きお方である。それは何千年を越え、再会した今となっても変わらない。変わらないのだが。
(それはそうと、少女のようで可愛らしいではないか)
薔薇色の頬をさらに真っ赤にさせて、愛すべき女神は怒っている。
どうやら彼女が無意識のうちに人払いをしているらしい。花の嵐が吹き抜けるような女神の怒りぶりを叱りにくる者はいなかった。
「怒らずにはいられないでしょこんなの! 誰だ! 私の腕と息子を持って行ったのは!」
「ははは。貴方様の口から、そんな激しいお言葉が飛び出すとは」
「サッポー!」
「ええ。ええ。わかりましたよ我が女神」
「書いて! あなたの、この世の何より美しい筆で! 私はあの子を愛していると!!」
「仰せの通りに」
「それでもって震え上がらせて!!」
「え、震え上がらせるんですか??」
「そう! アフロディテは愛するもののために怒るとこんなにも恐ろしいとわからせてやる!!」
「なんと。そういうテイストはちょっと、書いたことないなぁ」
「あなたならできる!」
「あはは! まあ、やってみますけどもね」
光さす本の海で女たちが語り合う。
一人は立ち上がり、感情をあらわにしては弁舌をまくし立て、もう一人はそれに合いの手を入れながらも楽しげに聞いている。これではどちらが女神で、どちらが人間かなどわかったものではないなぁ、などと女詩人は考える。
かつてあの島でも散々親しんだ、この空気が心地よかった。人も神も関係なく、何千年経ってもそれは彼女たちの間にある。
偉大なるギリシャの女詩人の再来と名高い、とある新進気鋭の詩人が新作を発表した。
今までの豊かな比喩で愛や恋を語る作風とはまた一味違う鮮烈さ。新境地への挑戦やいかにと最初のうちは面白半分にことを眺めていた世間の目も、今や意地悪な好奇さはなりを潜めている。とあるデイリー紙いわく、どんなロックバンドのニューアルバムよりも衝撃的、らしい。
「何読んでるの?」
図書館のソファに座って話題の詩集に目を通す女のもとに、少年がやってくる。
「これよ、これ」
得意満面、いたずらっ子のような笑みを浮かべて女神は彼に手渡した。それは彼女と、彼女の友人の渾身の一作である。
『あまねく、そして唯一の母と子たちにささげる歌』
藤村シシン先生のギリシャ神話講座を視聴して、
・ギリシャ神話に描かれる女神・女性像は、当時神話を書き残せたごく一部のエリート男性たちによって書かれたものである。そこに真実女神たちが女性たちにとってどういう存在であったかは描かれていない。当時の女性たちの声はほとんど残されていない。
という前提を学びました。
女性目線で残された資料がない以上、当時の真の女神たち・女性たちの姿を知ることはできないという苦悩があります。
ただし、アフロディテだけは別なのだそうです。
・アフロディテだけは女性詩人サッポーが残した詩に信仰が描かれている。サッポーの詩に描かれるアフロディテ は、親しみやすく穏やかで、寄り添ってくれる優しい女神のようである。
・一方、ギリシャ神話に描かれるアフロディテは、性愛に奔放で軽薄、不倫をしており、彼女がもたらす性愛は関係性や秩序を壊す、破壊的なものであると描かれている。
と、アフロディテについて女性詩人サッポーが書いたものと、ギリシャ神話で語られるものは別の側面があるように思われます。
さらに、
・アフロディテは母親でもあるが、神話の中では母親として未熟な(槍で手を傷付けられ、アイネイアスを置いて逃げてしまう)エピソードが描かれている
ことが印象的でした。
本当にアフロディテ は未熟な母親だったのだろうか? そうではなかった可能性もあるのではないか?
本当は、傷だらけの腕で息子を抱きしめ続けたアフロディテがいたのかもしれない、と妄想しました。
アフロディテが考える本当の美とはなんなのか? 聞いてみたい気がします。